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私の第三十四夜をつづります。

3月末の葛城古道そして室生古道。

 

ベランダのスミレの花を見て、今春3月末に葛城山東麓の道、そして室生の古道を少しだけ歩いたことを思い出した。

短い旅だった(桜の開花には1週間ほど早過ぎて、梅の花が美しかった)
帰宅後、その旅の写真をまとめることなく、1か月近く経ってしまった。

今の私は、印象的であったはずの旅の記憶ですら、日々薄れてアヤフヤになってゆく。
せめて、室生寺に咲いていたスミレを旅の記念として残しておこう…と思った。

それにしても、若い頃に訪れた時の印象とは、ほぼ別の姿であらわれた室生寺五重塔には、心底驚いたのだった(『室生寺五重塔とは、このように明るく建っていなかったはず…? もっと鬱蒼としたなかに建っていたような…?』 同じツァーの人々と一緒に見上げたそれは、私の記憶の”室生寺五重塔”とはまったく別のものだった)

この驚きが、四半世紀前の五重塔修復に起因しているとも思えなかった。
(あの当時、修復前より屋根の軒先のそりを強くしたことが報道されていたけれど、軒先の微妙なそり具合の違いが私に分かるはずもない。)
たぶん、倒木の被害を避けるために、周囲の樹々が伐採されたのだ。そして、五重塔が明るい光にさらされ、印象が大きく変わったのだ…と、今回”室生寺の印象”ががらりと変わってしまった私は、そう納得することにしたのだった。

また、日々、旅の記憶が不確かになりながらも、今もはっきりと思い出すのは、葛城山の東麓から(これまで見たことのない方向から)眺めた畝傍山のまるごとの姿だ。
(なんといっても、『万葉集』が編まれるよりもはるか昔から、人々は葛城山東麓のこの小さな道をたどりながら、大和盆地に浮かぶあの畝傍山を眼にしていたのであろうなぁ…と思いをはせることができるのだから。)

奈良は、”歌人相模”の足跡をあくせくと訪ね歩くばかりなで、このようにのどかな旅は新鮮だ。あと何度、奈良を旅することができるのだろう長谷寺さえも、まだ行きそびれたまま…)

 

葛城山東麓の古道で~

長柄神社(御所市)の社殿と軒裏に描かれた”龍”の絵:
葛城山東麓の古道は、この「名柄」の地で水越峠越えの道と交わるという。軒裏の龍は複雑な古色を帯びてゆかしい。

九品寺(御所市)の桜:
葛城山の東麓の古道より、さらに30mほど標高が高いところに建つ。

葛城山東麓の古道から見る畝傍山
畝傍山の周辺の開発がこれ以上進みませんように。

 

室生寺にいたる古道で~

佛隆寺(御所市)
室生寺の南門”とされていることを初めて知る。


室生寺灌頂堂(本堂)の垂木:
木琴のように垂木が並ぶ軒裏。美しいリズム。

明るい五重塔
近づくと、その小さいことにも驚く(昔、私は何を見ていたのだろう?)

 


「寶物殿」で拝した仏様たち:
70代になって、ようやく長年の願いを果たすことができた。


室生寺のスミレたち:もう春だものね…。

 

薔薇が咲いた!

 

4月20日…初夏を思わせる陽気だった。

人魚姫の公園でまっさき?に咲いた薔薇の名は「クリムゾン グローリー」。

人魚姫の公園では、晩秋にしおれて生気を失ったあと、薔薇たちはずっと眠ったままだった。

刈り込まれてからずっと、春になるまで静かに休むしかなかった薔薇たちも、四月の雨と光でしっかりと目覚めた(毎日、びっくりするほど生き生きとしていくのがわかった)

これから次々と、思い思いに咲き競ってゆく薔薇たち…いいなぁ…。

(そういえば、ベランダの白スミレたちも小さな花を鉢いっぱいに咲かせている…パパメイアンに似た薔薇の香りが楽しめるほどに。なぜ、スミレがパパメイアンに似た濃厚な香りをもつのだろう?)。

千手観音立像の面差し。

 

19日朝、大磯に出かけた。

まず、高来神社にお参りする(お正月に初詣した時の記憶もすでに朧げになっている。社殿の外にはお神輿が出され、新緑の境内では、湘南平をめざす?グループが準備運動にいそしんでいた)

参道の桜吹雪を踏みながら、慶覚院の仁王門をくぐる。
御本尊御開扉とあって、門もお堂も五色の幕で飾られ、一段と晴れやかな姿だった。

ほの暗い本堂は、拝観する人々や薄井和男氏による解説を待つ人々で、ほどなくいっぱいになった。
中央奥の厨子の扉が密やかに開かれている…あのなかにご本尊の千手観音様がいらっしゃるのだ。
さっそく厨子の前に進み、観音様のお顔とお姿を間近に拝した。

今日久しぶりに扉が開かれたことで、ひっそり佇む観音様はどこか戸惑うかのように見えた。
まず目に飛び込んできたのは、お身体の前面中央を縦に走る長い裂け目だった。まさに仏体を引き裂く無残な傷跡…。続いてお顔を見上げる。

それは仏様というより、”内気な女性神の面差し”なのかもしれなかった。
私たちが救っていただく…というより、むしろ、静かにそっと秘匿されなければならない存在…というような。

そうした印象はもしかすると、私たちの不躾な視線を避けるように、そのお顔がやや右(向かって左側)を向かれていること、そして、傷みが進んだそのお顔に、仏像として見慣れた形や表現が判然とは見当たらないためなのかもしれなかった(それによって、観音様は一層寂しげで所在無げな、とでもいうような表情に見えるのだった)

足元には、かつて”千手”をなしていた腕や手のひらの材がぐるりと置かれているのも、痛々しいことだった。

拝観後は薄井和男氏による貴重な解説を聴き、慶覚院の仏像群の概容を学んだ。そして、高麗山や八俵山、高来神社や慶覚院が一体となって、私にとって”大切な郷土”として存在することを改めて意識させられた。

慶覚院を辞し、再び高来神社の境内に戻った。
本堂で座って足が疲れたという友人と木陰のベンチで休み…座ってお昼にしようとして初めて、オムスビを買い忘れたことに気がつく…、初夏のような陽気を楽しんだ。

午後になって、少し風が出てきたようだった。
黄砂に煙る大山を眺めつつ、花水川を渡って平塚に帰る。

遠くに大山…高麗山の脇を花水川が流れて海へと注ぐ…それが私が生まれ育った場所なのだった。

 

 

高麗山を背にして晴れやかな慶覚院(大磯町)

 

千手観音立像の説明板(慶覚院本堂)

 

左:バス停横に貼られた「慶覚院ご開扉」のポスター(絵柄はお前立ちのお像)
右:御由緒書(慶覚院・地蔵菩薩坐像の写真)千手観世音菩薩の散華

           



 

「ひらつかの春のはまべに降る光 なみまがしわにながらみに」

 

4月初旬、家族に誘われて海に出かけた。

いつもは小暗い印象の松林が、木洩れ日で明るくなっている。
松葉の枯れ葉を踏みながら、公園のなかの道をゆっくり歩く。
アマドコロ、シャガ、サツキ、ハナズオウニチニチソウ…緑と茶色の林に彩りがもどってきていた。

浜辺に出て、波の音に囲まれる。
そのリズムにひたっていると眠くなってくる。
風に吹き寄せられて波模様を描く小石や貝たち。
いつものダンベイキシャゴナガラミや、形の綺麗なナミマガシワが波に濡れて光っている。

平塚の海は、いつ来ても、そのままに在る。そのままに広がっている。
波が打ち寄せ、浜が光り、風が吹き抜けてゆく…平塚に海があることの幸せ。

 

松林のなかの道

 

 姿をあらわしたアマドコロの群落

 

ぽつんと咲くシャガ             咲きはじめたツツジ

 

さらに遅れて咲きはじめたコデマリ(4月16日)

 

『小説家の休暇』の断片。

暇にまかせ、ぐるぐる思いめぐらすなかで……現在の自分という存在を形づくる意識というものは、結局は若い頃のそれと切れ目なくつながっているのだな……と思い至った(しごく当たり前なことなのだけれど)

で、先日、歌舞伎座に出かけたことも、やはり過去に味わった”欲望”に衝き動かされての行動だったのか、と改めて納得した(そもそも過去の自分が、歌舞伎というものに初めて”欲望”を抱いたきっかけは、”三島由紀夫”だったのだと…)

思えば、高校時代に三島由紀夫の作品に出会ってから社会に出るまでのモラトリアム期間のなかで、三島由紀夫という存在・世界をどうとらえるかが、私にとっての大きな課題だった(それ以降、そうした課題が何一つあらわれなかったこと自体が、私という人間の欠損?をあらわしていると思う)

しかし、そのような大きな存在・世界だった三島由紀夫も、しだいに仕事や家事という現実世界に埋没してゆく私にとって、胸の奥壁にピン止めされたブロマイドのような”過去の記念品”にすぎなくなっていった。

それでも、今なお”三島由紀夫”という文字を眼にした時、胸の奥にかすかな疼きを感じたりする(一過性の感傷でしかないのだけれど)

その疼きを、つい先日、ためていた新聞を読んでいた時にかすかに感じた。
その新聞の「惜別」という記事の冒頭に、”時代と寝る”という言葉を見つけて、かつて”三島由紀夫”という存在・世界が私にもあった…と思い出したのだった。

自分の中に残っている”何ものか”の断片が、こうしてふと意識に浮き上がった時に、現在の私が過去の私と切れ目なくつながっていることを、何となく感じたり確かめることができるものらしい。若い時、”何ものか”に出会うことが少なすぎたようだ…そんな気がする(もう遅い)

 

『神田祭』の鳶頭に涙する夜。

 

9日夕方、有楽町駅に着く。
駅前の桜は、ずっと吹き荒れていた風雨にも耐えて、ほんのり明るく咲いていた。

前回『桜姫東文章』を見てから4年ぶりの歌舞伎座だった。「四月大歌舞伎」の絵看板を眺めたあと、天井に間近い3階席にたどり着く。
今夜、再び仁左衛門玉三郎の舞台を観ることができる…夢のようだ。

場内が暗くなると同時に、21世紀に生きる私は一足飛びに19世紀の南北の世界で息をひそめる。
芝居は進み、舞台に土手のお六が夫と暮らす家があらわれる。

お六と鬼門の喜兵衛のうら寂れた暮らしぶり、その二人が交わすあざとい会話…それぞれの言葉や身のこなしの一つ一つに引き込まれてゆく。

やがて、夫婦がたくらんだ強請りごとは思わぬ方向に転がってゆく。

悪だくみに失敗し、どうおさまりをつけるのだろう…この芝居を初めて観る私は、舞台の夫婦になり替わって、決まりの悪い思いをする。

でも、その不安は見事に裏切られたのだった。

花道にかかるところで、”姿の良い夫婦”が軽口を叩きながら駕籠を担ぐ姿の何と洒落ていたことだろう(揃って背の高い役者さんなればこその見栄えの良さ…と思った)

舞台が再び明るくなり、ようやく遠眼鏡を外して息をふき返す。
死んだはずの男が蘇生する…という展開に沿うように、二人のよこしまな欲望と同居するアッケラカンとした気性が最後の場面で垣間見え、救われた。

場内では人々がお弁当を食べ始める。歌舞伎だなぁ…と思う(陰惨な結末が回避されることを、観客はみなご存知だったに違いない。私だけが剃刀の切れ味にヒヤヒヤしていたのだな…)

次は期待した『神田祭』…鳶頭姿、芸者姿の二人を再び遠眼鏡で覗きこみながら、仁左衛門の計算しつくされた色気に思わず涙してしまった。どこまでも軽やかで柔らかくてひたすら粋であること…涙はその軽やかさ、柔らかさに触れて溢れてくるのだろうか。

二人の艶やかな情愛や照れの繊細な表現…その抽象化されて仕組まれた愛の仕草、美しい動きに、ただただ心を奪われた時間だった。

今夜の二人の『神田祭』の空間と時間は、今夜だけの宝なのだった。

 

有楽町駅前の桜

 

歌舞伎座の前で

 

3階席からの眺め:いつも、身を捩りながら席に向かう客や、その大荷物が落ちたりしないものかと怖くなる席…。

 

銀座通り~すずらん通りの夜景





道路状遺構の剥ぎ取り資料を見て。

6日、平塚市博物館に出かけた。

開催中の春期特別展「ひらつかの古道を行く」の関連行事として、考古学の講座を聴いた。できる限り、こうして特別展を見学したり、講座・講演を聴いてみたりするけれど、分からないこと、知りたいことがふえてゆくばかりだきっと、古代東海道のことも相模国府のことも歌人相模のことも、何も明らかにならないままに終わるのだろうなぁ…。)

 

”古代東海道駅路”の剥ぎ取り資料の展示:
相模国府域の北西・外側に位置する東中原E遺跡第4地点で検出された道路状遺構の一部…まさに”道路そのもの”が展示されている(解説文に ”触っても良い”と書かれていたので、”そっと” 触ってみた)
調査区の写真パネルを見たり、この剥ぎ取り資料を指で触ったりしたことで、2004年4月の現地説明会のこと…市内の現地説明会としては驚くほど多くの人々が集まった…を思い出した。
あの時、私は2本の道路状遺構がそろって調査区外に消えてゆくようすを眺めながら、道路が南西方向(大磯海岸方面)に向かっていないことに、ちょっとがっかりしたのだった(道路は谷川沿いに西に進み、花水川を渡って出縄を通り、不動川沿いに寺坂を過ぎて大磯の国府本郷へと向かうのでは?と思っていたので)

あれから、この古代道路につながるような大きな発見はなかった。

それでも、現地説明会で見たデコボコの道路の剥ぎ取り資料が久しぶり(?)に展示されたことで、その硬化面の断面を覗き込み、厚みを確かめ、”古代東海道”の存在を再び身近に感じることができた(やはり”モノ”がもつ魅力、パワーは凄いなぁ)

 

”古代東海道駅路跡”が検出された調査区(東中原E遺跡第4地点)の写真パネル:
写真右上の2条の道路(同方向に走る3条の溝状遺構と2条の道路状遺構。全体幅9.7mの奈良・平安期の東海道駅路:東側の道路面・硬化面は後世に削平されている。古代~中世期に再整備された幅3mの道路:硬化面が残存しているが、北西に進んだ先のルートについては、依然として分からないままだ(東方向のルートについても、相模国府域内に入って相模国庁とどのような位置関係で走ってゆくのか、そしてどの地点で相模川を渡河するのか、明らかになっていない)
また、直線的(北西⇔南東)に走るもう1本の「溝状遺構(古代)」も、いまだ謎を秘めたままだ(南東先で”古代東海道駅路”と交わったりはしないのだろうか?)

              👇この先、2条の道路はどのようなルートをとるのだろう? 
                            👆古代の大きな溝状遺構                                         

       

                   👇この赤い紐の先が「東中原E遺跡第4地点」

 

講座を聴き、展示を見直したあと、総合公園の桜を見た。良いお花見をした。

総合公園の桜:
(薄曇りの空にかかる横雲のように、桜たちが白く薄赤く咲き重なる。あぁ、”時は春”…なんとやわらかな季節になったことだろう。若い頃にはさほど心惹かれなかった春の景色に、今は素直に心がとけこむ。”すべて世は事も無し”とは言えないけれど)

【追記】
今回の特別展で心惹かれた資料の一つが須恵器の甕(「第3章 道を行き交う人々:道がもたらすモノ」)で、施された文様も色合いも美しくて驚いた。
日和山古墳」(現在は消滅)から出土したとされるこの資料は、これまで写真…古い郷土史の粗い白黒写真…でしか見たことがなかった(はずだった…のに、帰宅後に確認すると、実際には2001年の特別展「相武国の古墳」で出品されていた資料だった。私の節穴の眼は、当時、この須恵器甕に気がつかなかっただけだった)
この「日和山古墳」は、東中原E遺跡の道路状遺構の北約400mほどの砂丘上にかつて存在し、その北東約700mの砂丘上には真土大塚山古墳も存在していたのだった(東中原E遺跡の古代東海道駅路は、おそらく日和山古墳の西、つまり現在の大野中学校の西側を通って渋田川を渡河したのではないだろうか?)
この「日和山古墳」について、『平塚市史 11上  別編 考古』では次のように記されている。

「…日和山古墳からは、墳頂下五十㌢から須恵器の甕が出土したことが伝えられ、現在では大野中学校に収蔵されている(図11)。この土器が日和山古墳から出土したことが確実ならば、古墳はほぼ五世紀代のものとみなすことができる貴重な資料である。…」

これからも、いろいろな歴史を秘めた”モノ”たちにたくさん出会いたい(すぐ忘れてしまう私は何度見ても新鮮?)