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私の第三十四夜をつづります。

曲名は?

 

暮れからお正月にかけて、壊れかけのミニコンポで、昔のMDやCDを聴く時間がふえた。久しぶりに聴いたMDのなかに、美しい調べのアリアがあり、しみじみと聴き惚れてしまった。何回も繰り返し聴いた。
『これ…何のオペラ?…たぶん、ヴェルディ…いや、もしかしてベルリーニだったりして?』(MDのラベルには「operas greatest arias」とあるだけで、何の情報も書き込まれていなかった。)

そうなると、私には、そのアリアの名だけでなく、何のオペラか、それすら分からない。素晴らしい歌い手が誰なのかも分からない(マリア・カラスでないことだけは確か…私に分かるのはそれだけか…)。

聴けば聴くほど、分からなくなった。手持ちのアリア集を次々に聴いてみたけれど、どこにも同じアリアはなかった。
何のオペラなのか、探し当てられない日が続く。どうにも、もやもやと落ち着かない。

で、今日、ようやくそのアリアの名が分かった。
ヴェルディのオペラでそれらしきものをいくつか書き出し、それらのソプラノの有名なアリアをPCで調べていくと、数曲目でヒットした(初めからそうすればよかった…やれやれ)。

アリアの名は「恋は薔薇色の翼に乗って」。オペラは『イル・トロヴァトーレ』。PCから得られる情報のおかげで、数日間のもやもやが晴れていった。

トロヴァトーレ』…これまで舞台を観る機会は無かったけれど、ソプラノが美しいアリアを歌っていたんだなぁ…と思う。楽しみの少ないお正月に、お年玉を貰ったような気持ちになった。

(楽しみの少ないお正月…いやいや、そうではなかった。兄の家に年賀の挨拶にゆき、甥や姪の子ども達にお年玉をあげて帰ってきた2日の夜、私も、お年玉をもらっていた。ここ数年、顔を見ていなかった甥から、電話をもらったのだ。心配していたけれど、元気そうな声に安心した。『よく電話してくれたね、久しぶりに嬉しいお正月になったよ』…すっかり大人になったはずなのに、思い浮かべる顔は少年の頃のままなのだね。)

 

♪恋は薔薇色の翼に乗って♪(1月6日の夕空)

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平塚海岸…箱根駅伝前日の静けさ

 

1日、家族から、今から海に行く?と誘われた。昨日と違って、日没に間に合いそうな時間だった。二日続けて、海へと出かけることにした。

海岸通りの旅館前には、駅伝に出場する大学の幟が並び立っている。明日は朝早くからヘリコプターが飛び回り、町の人々が海沿いの国道に向かうのだ。

自分で(母ではなく)お正月の準備(らしきもの)をするようになってこのかた、唯一、駅伝だけがお正月という特別な季節を実感するものになった。
私が最も生命力に満ちて外界と調和していた小学生時代…その頃の楽しかったお正月の思い出と、箱根駅伝とが、分かちがたく結びついているからなのだと思う。

とにかく、箱根駅伝がある限り、私は、子どもの頃の自分の満ち足りたお正月の”気分”をなつかしく反芻することができる。

浜辺には、携帯を手にして日没近い山の端を眺める人、小さな犬と散歩する人、凧揚げする人、釣り人、ボール遊びをする人、動かない影のようにひっそりと海を見つめる人…昨日と同じように、さまざまに休日の夕暮れ時を過ごしていた。

暮れてゆく海には大島が、大きく浮かんでいた(もしかすると、夕方という時刻に、大島は顕れやすいのかもしれなかった)。中空には細く白い月も。

いつもより遠く、漁港に近い東の砂丘まで歩いた。
浜辺暮らしの猫たちの姿を眼にして、数年前まで西の砂丘で暮らしていた猫のことを思い出す。いつも、ベンチの上で脚を丸めて、遠い眼をしてじっとしていた。海を、空を、風を、光を、時間の移ろいを、浜辺の人々の誰よりも深く見つめているように思えた。

人影は多いのに、波が砕ける音だけが響く浜辺のどこかで、あの猫がまだ海を見つめているような気がした。

 

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 海岸通りの歩道で(ハクセキレイのメス?):
体をふくらませ、長らくじっとしたままだった。

 

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2020年1月1日の海と少年

 

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2020年1月1日の海とカラス

 

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 2020年1月1日の海と富士

 

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2020年1月1日の大島

 

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2020年1月1日の月

 

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東の砂丘で暮らす三毛猫

 

 

明日は新しく始まる。

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2019年12月31日の平塚海岸

 

12月31日。朝早く起きる。シャワーを浴び、洗濯をし、大晦日の買い出しに出かける。

街から家に戻っても、まだ9時だった。
『そうだ 海、行こう…』
(長塚さんの声が聴けなくなって、京都への旅心が薄れたような気がしているけれど、時々、どこかからあの知的な声が響いてくるのだ。)

晦日の海には誰もいないはず…そんなことはなかった。
浜辺で、波の上で、人々はそれぞれの時間を過ごしていた。大晦日の街の慌しさなど素知らぬ風情で。

穏やかな陽射しだった。やや強い風に、青と緑の波色が重なり、白く巻き上がる。富士は雪を濃く厚くしていた。大島だけは姿がなかった。

波打ち際にうずくまる人がいた。手には大きめの袋と火鋏み。ゆっくりと立ち上がり、私のほうに近づきながら、ゴミを拾いあげては、袋の中へ。

少し迷ったあと、声をかけた。

お休みの日の朝、こうして浜辺のゴミを拾っているという。若い人だ。私は、といえば、のほほんとカメラをぶら下げているだけの姿。自分のチッポケな姿を恥じ入る。そして、若い人の、思いを行動にする勇気・持続する力・あきらめない心に励まされる。私にもまだできることがあるかもしれない…そう思えた。

明日は新しく始まる。変わろう。変えてゆかなければ。今のままで良いわけがない。

 

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火鋏みでは集められない流木の山

 

記事の切り抜き

 

27日になって、風邪がストンと抜けたような、楽な身体になった。
溜まっていたことを片づけよう、という気持ちになった。

ずっと気になっていた年賀状書きは、クリスマス前後に終わらせていた(まだ鬱々としていたけれど、ご無沙汰をしている顔を思い出しながら、何とかやりおおせた)。

残る片付け物…まず、12月の新聞がテーブルの上にうず高く溜まっているのが目についた。
友人に送るために、辺野古福島原発などに関する記事を切り抜きながら、新聞の山を崩してゆく。次々と、雑多な情報が目まぐるしく私の頭を通り過ぎてゆく(記憶にとどまらないのがもったいないことだ。情報の詰まった宝の山が、次々に資源ゴミの山に変じてゆくだけか…やれやれ)。

次に、次兄の家に届け物をする。一人暮らしの次兄が「まぁ、上がってよ」と言う。すぐ帰るつもりが、他愛の無いおしゃべりが終わらない(棚の上の「OK Google」よりは、私のほうが、少しは血の通った話し相手になるのかもしれない)。

帰り際、植木屋さんからの頂き物という小田原のみかんを持たせてくれる(小さいけれど、味がすごく濃くて甘い)。
明日からスキーに出かけるという兄に、怪我をしないように、とか、火の用心と戸締りを忘れずに、とか、つい声をかけてしまう(奥さんがもっと長く生きていれば…見送ってくれる兄の姿をふり返りながら、いつもそう思うのだ)。

今日は、大きな洗濯物をした。干す場所が狭くて困るのだけれど、何より、洗濯機が働いてくれ、太陽と風が乾かしてくれるので、私にとって一番気持ちよい家事だ。

こうして片付け物ができるようになったことだけで嬉しい。風邪を引く前(ゼロ)に戻っただけなのに、プラスの達成感があるのが嬉しい。ささやかな幸せは大事だ。

 

 

海の音色、その名も「フネンゴニ」 拾い集めたゴミ変身:朝日新聞デジタル

 

         12月7日の記事の切り抜き(『朝日新聞』)

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下醍醐から上醍醐へ③

 

今回の風邪(インフルエンザ?)で、これまでの生活のリズムに少し変化が生まれた。
ずっと音楽を聴くこともない干からびた生活でも、どうも思わなかった。それが、昔のCDをかけたりするようになっている。これは、思わぬ風邪(怪我)の功名かもしれない(年末という季節のもたらす気分のせいかもしれないけれど)。
いろいろと故障しているミニコンポから流れ出るピアノが、アリアが、地べたに張りついて右往左往するだけの私を、ふわりと、澄んだ空の高みへと連れていってくれるのだ。

あぁ、そうだった…きっかけは、今回の風邪だけではなかった。
12月の初旬、醍醐寺から帰ってからすぐに、ビオラ弾きの友人のコンサートに出掛け、音楽にひたる空間というものをしばらくぶりに思い出したのだった。
その日、友人が所属するオケでは初めて、「さすらう若人の歌」が演奏された。曲の通りに若い歌手が歌った。
家に帰ってから、D.フィッシャー=ディースカウのCDを探し出し、聴いた。そして、しばらくしてから、今回の風邪をひいたのだった。

再び、地べたから世界を呪詛するような生活に戻ってしまうのだろうか…2020年は、もう少し見晴らしの良いところに這い上がりたい。呪詛するだけの生活はうんざりなのだ。

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上醍醐では、山上の寺院建築の貴重さが、火災で焼失してしまう儚さと背中合わせになっていることの不安を切実に感じた。ある日突然失われてしまう危うさと常に背中合わせの尊い存在。
ただ、五大堂の空間にたどりついた時、尊いものが失われることへの不安にとらわれていた緊張感が、なぜかゆるんだように感じた。そこに広がっていたのは、何かが不在であることに満ちている空間…何と言えば良いのか、虚無であることが安らかである空間、とでも言えば良いのだろうか。とにかく、私の存在が小さく消えてゆくような空間が静かに広がっていたのだった。
(それが、立体的な尊像の不在ゆえの安らかさなのか、二次元の壁画空間がもたらす安らかさなのか、分からない。ただただ、『なぜか今日、私はここに来たのだ…』という気持ちになった。深呼吸をし、ふぅ~っと安らいだのだった。)

日常生活の”憑き物”が落ちる…そんな瞬間だったと思う。
旅空をさまよう時、音楽空間にひたる時、熱と苦痛の悪夢から回復した時、日常の“憑き物”の一部が剥がれ落ちる。
日常の泥底に沈んだまま、生きてしまっている自分に気がつく。かつて知っていた場所に浮かび上がるきっかけをつかまなくてはいけなかったのだ、と分かる。
かつて知っていた場所に戻ろう…そう思う瞬間。

 

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五大堂と説明板

 

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上醍醐からの眺望

 

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如意輪堂と説明板

 

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白河天皇皇后賢子・皇女媞子内親王・皇女令子内親王鳥羽天皇皇女禧子内親王の陵墓:この上醍醐の高みに鎮まる4名の女性たちの”場”というものに、安らかなような物寂しいような、不思議な感情を抱いた。


この時点でふと日常に戻る。すでに15時近くになっていた。このまま下醍醐に急ぎ戻っても16時をまわることだろう。
残念なことに、日常に戻ってしまった心は、帰りの新幹線ホームへと飛んでゆくのだった。

下りの山道を一気に走り降り、醍醐駅はもう直ぐ…という場所までたどり着いた時、ちょっとした段差に膝がガクッと笑った。面白いほどに膝がガクッと折れたことに、本当に声を出して笑ってしまった。

追加しておかなくては…。
”憑き物”を落とすには、体を酷使することも、声を出して笑うことも良いのかもしれない、と。
かつて知っていた場所に戻ろう…そう思う瞬間。

 

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醍醐駅の手前で見納めた紅葉

 

 

 

 

 

 

下醍醐から上醍醐へ②

12月16日、東京で学生時代の友人たちと逢った。
その夜、寒気がおさまらず、熱を測ると37度5分あった。その後、38度まで上がり、全身の筋肉痛がひどくなってゆく。結果、まったく寝たきりの2日間を過ごすことになった。
ちょっとした寝返りもままならず、台所で10分と立ち続けていられない痛み(いてもたってもいられない苦痛?)だった。
その苦痛も、3日目あたりから熱とともに弱まっていった。ただ、4日目に再び熱が上がって37度5分に戻った。痰を出そうと、体を折り曲げ激しく咳込むことで、腹筋の痛みだけは最後まで残っていた。

で、喘息の吸入薬が残り少ないこともあり、結局、受診することになった。「その症状から、インフルエンザの可能性も…」と診断された。あの耐えられない筋肉痛が世に言うインフルエンザなのか?と納得がいった。

この秋、思えば、体調がまぁまぁなのを良いことに、ずいぶんと出かけ過ぎた気もした。16日から一週間、鬱々とベッド周りで過ごすなか、元気に上醍醐の山道を登った時間が、ずいぶんと遠い思い出になっていった。

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醍醐寺の境内を流れ落ちる水が、背景の山のなかで細く静かに湧き出る姿を思い描く。一刻も早くその地へ…下醍醐から上醍醐へ…と気がはやった。
ただ、その道のりは、高麗山で言えば、八俵山まで何往復かするほどの気力・体力が必要だった(写真を撮る以外、休み無く登っても、薬師堂まで1時間20分はかかっている)。

途中、階段が続く坂を登りながら、ふだん汗をかかない私も、朝からろくに水分を採っていないことに不安を感じ始めた。しだいに、”醍醐水”の湧き出る地点にたどり着くことだけを考えるようになった。
そして、とうとう目の前に現れた「醍醐水」の大きな文字。しかも、お堂の前には蛇口が、そしてコップまでもが用意されていた。
ごくごくと音を立てて喉を潤すことの喜び、快感。水のありがたさが体じゅうに、一気にしみわたった。”甘露…甘露!”…昼食も採っていなかったけれど、もう元気百倍だった。

薬師堂の前から、眼下に連なる山並みを見渡した時には、その眺望もまた、”甘露”のように体にしみわたった。そして、この高みに堂宇を建てた人々に思いを馳せた。

 

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▲登り口の女人堂近くの「一丁」石、そして上醍醐寺務所近くの「十九丁」石 

 

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「醍醐水」の説明板とお堂

 

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乾ききった喉を潤してくれた「醍醐水」:
お堂の背景にはぽっかりと空が…。かつて、その場所に存在していた准胝観音堂は、2008年8月23日夜半の落雷で全焼したという。ぽっかりと開いた空は、周辺の森林にまで延焼が及んだ結果なのかもしれない。信仰が宿る形そのものが一種の生命体であった場合、その生命体の形を失った空虚さは、時を経ても覆い隠せないもののようだ。

 

薬師堂からの眺め

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薬師堂の説明板とお堂

 

下醍醐から上醍醐へ①

12月5日、奈良に出かけ、古墳主体部の発掘体験に参加した。
旅に出る前、地道な発掘調査作業を経験していた友人と逢った。
念願の発掘体験を前にして期待過剰の私が、「何か、すごい遺物が出たらどうしよう… 三角縁神獣鏡とか?」と話すと、友人は可笑しそうにしながらも、『まぁ、気をつけて行ってらっしゃい』と励ましてくれた。
(結局、私にはビギナーズ?・ラックも奇跡も起きなかった。斜縁神獣鏡の本体が出てくる可能性が十分にある体験だったけれど。)

そして、その発掘体験を終えた5日の夜は京都に宿泊した。
(翌日、11世紀前半の歌人相模が初瀬参詣の旅で立ち寄った伏見大社を訪ね、その足で醍醐寺に向かう予定を立てていた。)

しかし6日朝、なぜか、伏見大社よりも先に醍醐寺に行こう!と気が変わった。何となく、そうしたくなったのだ。で、それは正解だった。結果的に、伏見大社を訪ねる時間の余裕はまったくなかった。醍醐寺だけで、一日を費やしてしまったのだから。 

醍醐寺も初めてのお寺だった。
名高いお寺をいよいよ参詣する。その楽しみに加え、秋期特別展 「悠久の祈り 醍醐寺の至宝」展で、きっとたくさんの仏様に出会うことができるはず…そう思うとワクワクしないではいられなかった(降り立った醍醐駅も、お寺までの道のりも、お寺を擁する醍醐山の姿も、私にはすべてが新鮮に映った)。

まず、醍醐寺に実際に足を踏み入れて、『醍醐寺とは、偉大な寺なのだな…』と感じた。そして、霊宝館の秋期特別展も、風が吹き抜ける仏像棟も、巡るほどに、チッポケな自分が、醍醐寺の歴史の重みに圧倒されてゆくように感じた。歴史の時間があふれている…そんな圧倒感だった。
(霊宝館では、側柱に転用された「旧五重塔四天柱」を、仏像棟では快慶作「不動明王坐像」を眼の前にした時だけ、チッポケながらも自分の好奇心を取り戻したけれど。)

 

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    宿近くの「北向不動明王」(長増寺):
    かつて訪れた伏見区竹田の北向山不動院、信州上田の北向観音
    同じように、相模国府と北向観音の位置関係に関心がある私は、
    旅先に存在する”北向”の建造物は通り過ぎることができない。

 

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醍醐寺の紅葉と黄葉:
仏像棟で冷えた体には、わずかながらも届く陽射しがありがたかった。

 

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   金堂:
   上醍醐(醍醐山:標高約450m)へと、東に高まってゆく境内を廻って
   ゆくと、少し不思議な感覚に誘われる。
   金堂は標高約50mの平坦面に南向きに建ち、抱かれるべき醍醐山を背にし
   ていない(金堂の背景の右手に山~空~左手に市街地を見せる景観)。
   また、南面する斜面を、醍醐山を源とする万千代川が流れ、清涼な印象
   があった。

 

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      五重塔
      「旧五重塔四天柱」の太さを思い出す。そして、宙ぶらりん?
      の心柱の姿を想像する。

 

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 下醍醐の奥にも流れ落ちる万千代川の水