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私の第三十四夜をつづります。

ミャンマーで ④ 外光が差し込むスラマニ寺院

 

f:id:vgeruda:20200128140837j:plain修理中のスラマニ寺院(バガン):
2層の美しいピラミッド型のシルエットはこの位置からは望めない。加えて、地震の被害を受けた仏塔部分が工事中だった。

 

初めてのミャンマーの旅のなかで、”寺院と呼ばれる建物”を実際に眼にしたことで、私が若い頃から”ビルマ的”…と感じていたものは、実は”仏塔(パヤー)”というものらしい…と分かった。

一方、”寺院と呼ばれる建物”は、土着的な色彩…白の漆喰を失ったことで、もともとの風土の色合いに回帰している…に古色を帯びて神秘的であり、また、その一様にどっしりとした重量感やシルエットは、むしろ”西洋的”…私のイメージでは、ヨーロッパの教会建築にも似た重厚さ…とも感じられた。

そして、ミャンマーでの仏塔・”寺院と呼ばれる建物”の在り方は、日本での寺院の在り方(人々の受けとめ方)とはかなり異なっている(むしろ、”暮らしのなかの祈願の場”としての神社の在り方、人々の受けとめ方に近い?)ということも分かった。

私が見かけたミャンマーの人々は、仏塔や”寺院と呼ばれる建物”において、仏様の前で座り込むようにして熱心に祈っていた。

ガイドさんは「自分のために祈るのではなく、大切な人のために祈るのです。みんな、自分の収入の10分の1くらいを寄付するんです。私もしています。」と明るく説明するのだった。
(私は若い頃、人前で祈ることに強い抵抗があった。今でも、人前で神仏への祈りに没入することはできない。そして、ミャンマーの人々のなかに、私のように、”人前で祈ること”へのためらい・抵抗感を持つ人がいるようには思えなかった。)

 

”うねる瞼”に捉われたスラマニ寺院では、ガイドさんの後を追いかけるのがやっとだった。
それでも、仄暗い回廊を抜けるごとに、風が行き来している装飾的な扉から差し込む外光のやわらかさを感じ取った。

花やビルマ文字(?)などをデザインした扉。
 その文字は、視力検査で、「右」とか「上」とか、輪が切れている方向を答える記号(”C”に似た記号)が連なるように見え
る。その上には、24枚の花びらの紋様が載っている。

 

f:id:vgeruda:20200128140856j:plain施釉(緑と黄の二彩?)された外壁部分:
緑釉陶器より淡い緑。外壁のこの部分が美しく施釉されたのはなぜなのだろう?

 

f:id:vgeruda:20200128140928j:plainスマホを見る少女:
お供えの花を売る彼女の頬には”タナカ”(日焼け止めの化粧品)が塗られている。
金属の扉は光と風の通り道であり、”荘厳”ともなっている。

 

f:id:vgeruda:20200128140946j:plain花を売る少女を見守るような”鬼”(?)の壁画:
牙を持ち、鬼の様相を見せているけれど、瞳が明るく、快活な若者の印象。

 

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     捧げものを掲げる女性の壁画:
     下の絵(原画の描線?)を描き直したように見える。
     女性は、小島功氏が描いた”河童の奥さん”の雰囲気に似ている?

 

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光と風が通る扉:
上には花ビルマ文字、下には向かい合う”蛇身”(?)の紋様。

 

         参考:観光バスの車内に掲げられていた
             24弁の花びら形の”お経”
               (ガイドさんの説明では、仏様を中心に、
                パーリ語の24項目のお経が記されているらしい。)

         f:id:vgeruda:20200201201139j:plain

 

 

ミャンマーで ③ ”うねる瞼”に出会う。

 

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”うねる瞼”:スラマニ寺院の壁画(バガン

 

数年前から、鶴見で開かれている仏教美術の講座に参加してきた。
その講座のなかで、先生が何度か指摘した”うねる瞼”・”つりあがる目尻”を持つ仏像や画像の事例が、ずっと心に引っかかっていた。

先生が指摘した一つの典型例が、岩手県・黒石寺の薬師如来坐像(862年)だった。

 

f:id:vgeruda:20200125233328j:plain”うねる瞼”:黒石寺の薬師如来坐像(「みちのくの仏像」展〔東京国立博物館 2015年〕のチケットから)

先生が”うねる瞼”・”つりあがる目尻”という表現について言及した時、「みちのくの仏像」展で初めて出会った黒石寺の薬師如来坐像が、なぜ異様な強い力を発散していたのか、その秘密が分かった気がした。そうか、あの仏様は”うねる瞼”をしていたのか、と。

そして今回、ミャンマーの旅のなかで、”うねる瞼”に再び出会った(黒石寺の仏様のあの眼だ、そう思った)。

旅から戻って、そのバガンの寺院(スラマニ寺院など)の仏像や壁画に表現された”うねる瞼”の源流はどこなのか?が気になって落ち着かない。

同じような”うねる瞼”が、なぜ、9世紀中葉の黒石寺の仏像と、12~19世紀のバガンの寺院の仏像・壁画において表出するのだろう?

(鶴見の講座では、黒石寺の薬師如来坐像の”うねる瞼”に共通する事例として、「金剛薩埵像 頭部 唐・9世紀 敦煌莫高窟14窟」の画像が示され、9世紀の唐の表現が直接的な形で影響した可能性も?との言及があった。
 また、鶴見の講座で配布された資料を、改めて”うねる瞼”という視点で眺め直してみると、興福寺の「木造仏頭」(運慶作 1186年)、神護寺の「僧形八幡神像」(鎌倉時代)、東大寺の「僧形八幡神坐像」(快慶作 1201年)などにも、”うねる瞼”に通じる表現が感じられるのだった。)

日本では、9世紀中葉と12世紀末といった時代に”うねる瞼”の事例があるとして、それは、どこかでミャンマーでの”うねる眼”に結びつくものなのだろうか、まったく関係の無いものなのだろうか?

それに、昔、TV番組のなかで見たネパールの仏塔の外壁に描かれた大きな眼も、今思えば”うねる瞼”だった。あの表現はいつ頃から定着したものなのだろう?

当分、こうして、ああでもない、こうでもないと、”うねる瞼”の謎にとらわれ続けるのだ。

ミャンマーで出会った”うねる瞼”…私一人だけが抱える謎…がまた増えた…。

 

【スラマニ寺院で出会った”うねる瞼”】

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*壁画のそれぞれの制作年代については情報が少なく、つかみきれなかった(寺院の年代としては12~19世紀とかなりの時間幅をもつが、画期は12世紀・18世紀頃にあるのだろうか?)。
ただ、下段左の白・緑の色調の対比が美しい絵は、耳の形も曲線的で、やや古い時期のような印象を持った。

なお、同じように古い時期の制作?と感じられた壁画には、次のようなものもあった。

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【上:悪魔?と蛇?と仏様、中:象、下左:漁?のようす 下右:下左図左半部の拡大】

 

また、スラマニ寺院だけでなく、次の寺院でも、”うねる瞼”の像に出会った。 

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【左:ダマヤンジー寺院(12世紀建立) 右:ティーローミンロー寺院(13世紀建立)
*ともに、仏像の制作年代は不明。

 

≪補記≫
このように、それぞれの仏像・壁画の表情は個性にあふれ、表現様式は混沌としているように見える。それでいて、上瞼が波打ち、半眼として描かれている点は共通している。
一方、黒石寺の薬師如来坐像の表情は厳しく近寄りがたい点で、ミャンマーのこれらの造形表現とは一線を画しているし、影響が推定される9世紀の唐の画像のやわらかで物憂げな印象とも異質だ。
やはり、黒石寺の事例は、鶴見の講座の先生が想定されているように、「厳しい表情は、神像の表現との関連」や「”神”と”仏”の交渉の産物であった可能性」を考えるべきものであるのだろう。

ミャンマーで”うねる瞼”と出会って、思わず『さまざまな”うねる瞼について、その源流をさかのぼれば、ひとところに行き着くのでは?』と妄想をめぐらせる時間をもったことは、鶴見の講座で、先生の専門的かつユニークな視点に接することができたから…そう思う。) 

 

 

ミャンマーで ②

f:id:vgeruda:20200125120525j:plain渋滞中のバスの窓からヤンゴン 2020年1月20日

 

15日は、機内に1冊の本を持ち込んだ。久しく読むことがなかった村上春樹…その短篇集(『女のいない男たち』文藝春秋 2014年)を選んであった。

途中、いつものように頭痛薬を飲んだにせよ、ビルマまでの7時間弱、6篇の物語世界に順繰りに分け入ることで、いつになくふわふわとした浮遊感のなかで過ごすことになった。
ヤンゴンの空港に着くと、物語世界の浮遊感がそのまま、長く座り続けた脚のふらつき、頭の揺らめきと重なった。

『女のいない男たち』のなかで、若い頃の私が”村上春樹的世界”と感じていた物語空間に通じてゆけそうな感触(既視感)があったのは、「シェエラザード」と「木野」の2篇だった(正確には、かつて味わった感触を探そうとしただけかもしれない)。

そして、私たち一行がぞろぞろとヤンゴンの33度の外気温を受け入れてゆくなかで、”シェエラザード”も”木野”も、速やかに村上春樹的世界”へと退いていった。

 

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綿の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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黄色の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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細く白い花(バガン

 

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リュウキュウミスジに似た蝶(バガン:ポッパ山)

 

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ブーゲンビリアバガン

 

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黄色の花(バガン

 

f:id:vgeruda:20200125105354j:plain夕焼け(インレイ湖畔)

ミャンマーで ①

f:id:vgeruda:20200124210849j:plain 夜空を背景に燦然と輝くシュエダゴン・パゴダヤンゴン 2020年1月15日)
 

ミャンマー…今回の短い旅で初めて訪れたその国について、本当に何も知らなかった(今も何も分かってはいないのだけれど)。

駆け足で巡ったミャンマーから帰ってきた今、改めて、大昔の教科書…おそらくはミャンマーの記述内容にそう大きな変化はないはず?…でミャンマーに関する箇所を探してみた。拾い出してみれば、次のように、それはごくごくわずかなものだった。

【『図説 世界史B 最新版』(帝国書院 1993年)から抜粋・引用】
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・・・ミャンマー(ビルマ)では11世紀、ビルマ民族の国家であるパガン朝(1044~1287)が成立し、スリランカから伝わった上座部仏教(小乗仏教)が国教とされ、多くの寺院が建てられた。この上座部仏教がのちにインドシナ半島の多くの王朝に受け入れられた。・・・(p.121)
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・・・ミャンマー(ビルマ)においては18世紀半ば、トゥングー朝が衰えコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752~1855)が成立したが、タイのアユタヤ朝を滅ぼす一方、インドのアッサム地方にもしばしば侵入した。これに対し、イギリスは前後3回のビルマ戦争(1824~86)によって、これを征服し、インド帝国に併合した。・・・(p.246)
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・・・ビルマ(1948 現ミャンマー)の独立は平和的に実現した。・・・(p.334)
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 これだけですか?…というほど短縮されたミャンマーの歴史。そこに加わる私の断片情報といえば、パゴダ、「ビルマの竪琴」、スーチーさん、ロヒンギャの問題…それくらいだった。

それでも、今回の旅で見たもの、聞いたものは、新鮮に美しくよみがえり、それらの新しい情報で上書きされた新たなミャンマー像が、おぼろげながら立ちあがってくる。

私の記憶がかすんでゆく前に、いつものように、ミャンマーの数日の断片を写真の形でまとめておく。

 

f:id:vgeruda:20200124203232j:plain朝焼けと有明の月(インレイ湖畔)

 

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赤い縁取りの花(バガンティーローミンロー寺院)

 

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白い小さな花(バガン:ケーメンガ寺院)

 

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蓮の花(バガンアーナンダ寺院

 

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黄色の蝶(バガン:タビニュ寺院)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”海と夕焼”

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”海と夕焼”(2020年1月11日16時52分)

2020年1月11日。
夕刻の報道のなかで発せられた「亡国感」という言葉が異様に、そして切実に響いた。

台湾の人々がその言葉から聞き取る響き・意味合いと、日本の私が受け取るイメージとが、どのように重なり、どのようにずれるのかは分からない。

しかし、私の中にも「亡国感」の響きに見合うものが存在する。そんな感じのものが、とぐろを巻いて、日々、苛立ちに身をくねらせていることに気がついた1月11日。

 

 

 

1月8日の月

10日の今夜が満月であれば、8日に見た月は十三夜の月?

東の空では淡くはかなく消え入りそうなのに、中空にあがれば白い磁器の肌を輝かせる。

見つめることが許されるその光、その形の変幻。その詩的な光、その音楽的な形。

 

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真土大塚山古墳の副葬品:「金官加耶産の有肩袋状鉄斧」

 

かつて相模国府について学んでいた頃、「相模国府年表(7~12世紀)」を自分の覚書としてまとめたことがあった。
その作業のなかで、具体的に良く理解できない用語の一つとして、”勅旨田”というものがあった。当時の相模国司や郡司たちの資料上での動きや、9世紀代の遺跡の性格を解き明かす鍵となるタームかもしれない…と、他国の事例などをあれこれと調べてみた。しかし、結局、その実態や意味付けにはたどりつけず、用語のうわべをぼんやりとなぞるだけで終わった。

また、その作業で初めて”百済王教法(くだらの こにきし  きょうほう)”という名を知った。
(年表の項目としては、”802年 桓武天皇女御・百済王教法 大住郡に田2町”として載せた。)
そして、”大住郡の田2町”が与えられた「百済王教法」という女性が、その名が示すように、渡来系氏族であることに関心を持った。いったい、韓半島から来た百済王の氏族とはどのような人々だったのか、彼らは日本の歴史にどのような足跡を残したのだろうか…見知らぬ渡来系の人々と相模国との係わりについて、とりとめのない妄想をめぐらしたのだった。

その頃から10年以上経ち、『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(朴天秀 2007年  講談社)を読みはじめたばかりの私に、韓半島相模国との係わりの妄想が再びよみがえった。

その『加耶と倭』は、3~6世紀の加耶百済新羅と日本列島との交渉を考古学的な視点から捉え直す著作で、昨年末に奈良市・富雄丸山古墳の調査現場を見た私にとって、韓半島と日本の古墳の出土資料を比較する視点は、とても新鮮なものに思えた。

とりあえず、真土大塚山古墳の時代に頭を切り替えて『加耶と倭』を読み始めた私の眼は、「金官加耶と倭」という項の一文(p.32)に釘付けになった。その一文に「神奈川県真土大塚山古墳」という文字が混じっていたからだった。

その一文の主旨は次のようなものだ。

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金官加耶産の板状鉄斧・有肩袋状鉄斧が、古墳時代前期の京都府 椿井大塚山古墳、岡山県 備前車塚古墳、京都府 長法寺南原古墳、愛知県 東之宮古墳神奈川県 真土大塚山古墳群馬県 前橋天神山古墳、福島県 会津大塚山古墳など、各地の有力首長墓に副葬される
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まず、真土大塚山古墳の出土遺物として、”鉄斧”があったことは覚えていた。しかし、そのなかに「有肩袋状」とされる鉄斧があること、ましてや、それが「金官加耶産」であることは初めて知ることだった。

また、この一文に挙げられた椿井大塚山古墳・備前車塚古墳が、真土大塚山古墳の副葬品”三角縁四神四獣鏡”の同笵鏡を出土する古墳であることにも、興味をそそられた。

すぐに、『平塚市史11上 別編考古(1)』(1999年)や『相武国の古墳-相模川流域の古墳時代-』(2001年 平塚市博物館)を開き、その鉄斧の存在を確認した(”袋状鉄斧”とされている)。次に「有肩袋状」の意味を調べ、ようやく真土大塚山古墳出土の”袋状鉄斧”についての認識を新たにすることとなった(金官加耶産の有肩袋状鉄斧」の可能性があるのだと)。

ただ、市史や図録の実測図や写真を見ても、”袋状”であることは確認できても、「有肩袋状鉄斧」というものかどうかは確かめられない(ちなみに、三角縁四神四獣鏡をはじめ、真土大塚山古墳の有数の出土遺物のほとんどが東京国立博物館所蔵となっている)。

思えば、近年、真土大塚山古墳など、地域の古墳時代の様相について、新たな研究成果の発表などに接する機会が無かった。
今回のように、読書を通じて、たまたま、その出土遺物に関する新たな情報を得ることはあっても、多くの人(地元の市民など)に周知されるわけもないのだった(新たな情報を共有する機会が少なくなりつつあるのはさびしいことだ)。

また、真土大塚山古墳出土の袋状鉄斧が金官加耶産の有肩袋状鉄斧」である可能性について、生半可に理解した時点で、新たな謎も生まれてくる。

*なぜ、金官加耶産の有肩袋状鉄斧”が真土大塚山古墳に副葬されたのか?

三角縁神獣鏡の同笵鏡を共有する椿井大塚山・備前車塚・真土大塚山の三つの古墳が、そろって金官加耶産の有肩袋状鉄斧」を持つことに、”偶然”以上の意味はあるのだろうか?

*もし、真土大塚山古墳の”袋状鉄斧”が”金官加耶で4世紀に制作された有肩袋状鉄斧”であるならば、古墳の築造年代を4世紀代とする論の傍証の一つになるのだろうか?

【註】前掲の「金官加耶と倭」の”一文”(p.32)へと続く前段には、「金官加耶」の成立時期などについて、次のような記述がある(以下の引用文の後半は、前掲の”一文”の原文)。
_______________________________________

(p.31)…(前略)金官加耶の成立は、金海市内の中心部に位置した大成洞古墳群をその始まりとする。三世紀中葉を起点に丘陵頂上部に王墓域が形成される…(中略)…

 (p.32) 金官加耶と倭

 大成洞古墳群では四世紀になると、中国産鏡と北方系銅鍑(どうふく)の副葬が衰退し、日本列島産文物が副葬されるようになる。これは三一三年前後における楽浪、帯方の衰退を契機として交易が日本列島に集中することによるものであろう。さらに日本列島産文物は良洞里古墳群で副葬されていた九州産広形銅矛と倣製鏡が消え、畿内地域の首長墓で出土する巴形銅器が取りつけられた盾、石製品など近畿系文物が主流を占めるようになる。
 その一方で、大成洞古墳群の副葬品である鉄鋌と鉄製品、馬具、筒形銅器が日本列島に移入され、畿内の首長墓に副葬される。特に金官加耶の板状鉄斧と有肩袋状鉄斧が、古墳時代前期の京都府椿井大塚山古墳、岡山県 備前車塚古墳、京都府 長法寺南原古墳、愛知県 東之宮古墳、神奈川県 真土大塚山古墳、群馬県 前橋天神山古墳、福島県 会津大塚山古墳(カラー図版参照)など日本列島各地の有力首長墓に副葬される。…(後略)…
【『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(朴天秀 2007年 講談社)から抜粋・引用】

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新たに得た情報が、新たな問いかけを生む。
加耶と倭』の読書はまだ始まったばかりだけれど、私のなかで、表面的な理解で固定したままだった真土大塚山古墳のイメージが、空間的には、東国の地から海を越えた韓半島にまで広がったように思う(寄り道と妄想が多くて、読書はなかなか進まない…)。

 

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 『平塚市史 11上 別編考古』(p.678 図103)から:
右上の 2 が”袋状鉄斧”とされる資料。断面図では、身と刃が一体構造で
作られているように見える。
【註】
弥生時代後期初頭までさかのぼる袋状鉄斧は東海地方では初例であり、
また朝鮮半島産と考えられる有肩袋状鉄斧としては、東日本最古の資料」
参照】
とされる朝日遺跡(愛知県清須市名古屋市西区)出土の「鍛造
有肩袋状鉄斧」
のように、 身と刃を別個に作り、合わせたものかどうか
は、この図からは判断できない。)

* http://www.maibun.com/KihonDate/open/001.html

 

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『相武国の古墳-相模川流域の古墳時代-』(p.3)から:
左下の13が”袋状鉄斧”とされる資料。
(この写真からも朝日遺跡出土の「鍛造有肩袋状鉄斧」と同じ作りか
どうかは判断できない。)