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私の第三十四夜をつづります。

ミャンマーで ⑤ アーナンダ寺院の11世紀の仏像

 

12世紀建立のスラマニ寺院で私が見た仏様の多くが坐像・涅槃像であったのに対し、11世紀建立のアーナンダ寺院で東西南北のそれぞれに配された仏像は、巨大な立像(高さ約9.5m)だった。

ガイドさんは「北と南の仏像は創建時の11世紀代のものです。1本のチーク材からできています。」と説明する。
(この説明を受けたのはたぶん、”北”の像だったと記憶しているのだけれど。)

そして、ガイドさんは参考資料として、携帯に保存された古そうなモノクロ写真…おそらくイギリス統治下時代に撮影されたもの?…を私たちに示す。
(森から伐採されたチークの巨大な切り口が写っている。横に立つ人の身長からは、直径数mはあるように見える。11世紀代にも、こうした巨大な像を掘り出せるほどに、豊かな森林があったのだろう。)

「仏像の中は刳り抜いてあるんですか?」と聞くと、ガイドさんからは「いえ、刳り抜いていません。木のままです。」という答えが返ってきた。

アーナンダ寺院で初めて、こうした11世紀代の”一木造り”の仏像を拝したことで、『ここには、長谷寺の観音様のようにな巨大な仏様が残っていたのだなぁ…』と、”一木造り”の仏像の制作者に親近感のようなものを持ったのだった。
(ただ、金色に輝くエキゾチックな顔立ちにはとくに注目することはなかった。翌日には、スラマニ寺院で”うねる瞼”に出会い、仏様の顔立ちの違いに驚くことになるのだけれど。)

11世紀…それは歌人相模の初瀬参詣の旅を追いかけている私にとって、見過ごせない時代だった。歌人相模が祈りを捧げた当時の初瀬の観音様はどのような眼をしていたのだろう?

時代により、地域により、実にさまざまな仏陀の偶像表現が生まれながら、その姿のままに、いつの時代も人々から祈りを捧げられ続けてきたこと…仏教が伝播の道筋でそれぞれに変容を遂げていった先に、多種多彩な偶像表現が生き続けていること…その在り方は彼我の言語の違いほどに違っていそうなこと…ミャンマーの旅を経て、そんなことを改めて感じている。 

 

アーナンダ寺院の巨大な立像】

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 北の立像:
額にカチューシャのような飾りを着ける。

 

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 南の立像:
螺髪が良く見て取れる。
また、先に見学したシュエジーゴン・パゴダ(パヤー)の見学のなかで、「仏像は時代が下ると、螺髪の表現は省略されます。はっきりとした脚の表現もなくなります」という説明を聞いていた。確かに、腰から太ももにかけての曲線・丸みが強調された造形。

 

参考:シュエジーゴン・パゴダ(パヤー)の新しい様式の立像】

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顔立ちも没個性的(?)になって、平板な印象。

 

 

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    アーナンダ寺院の小さな坐像:
   剣で髻を切るような(?)仕草を見せる。 

 

アーナンダ寺院の近くに建つタビニュ寺院:
外壁は漆喰の白さを残し、西洋の教会建築のような雰囲気を感じた。

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ミャンマーで ④ 外光が差し込むスラマニ寺院

 

f:id:vgeruda:20200128140837j:plain修理中のスラマニ寺院(バガン):
2層の美しいピラミッド型のシルエットはこの位置からは望めない。加えて、地震の被害を受けた仏塔部分が工事中だった。

 

初めてのミャンマーの旅のなかで、”寺院と呼ばれる建物”を実際に眼にしたことで、私が若い頃から”ビルマ的”…と感じていたものは、実は”仏塔(パヤー)”というものらしい…と分かった。

一方、”寺院と呼ばれる建物”は、土着的な色彩…白の漆喰を失ったことで、もともとの風土の色合いに回帰している…に古色を帯びて神秘的であり、また、その一様にどっしりとした重量感やシルエットは、むしろ”西洋的”…私のイメージでは、ヨーロッパの教会建築にも似た重厚さ…とも感じられた。

そして、ミャンマーでの仏塔・”寺院と呼ばれる建物”の在り方は、日本での寺院の在り方(人々の受けとめ方)とはかなり異なっている(むしろ、”暮らしのなかの祈願の場”としての神社の在り方、人々の受けとめ方に近い?)ということも分かった。

私が見かけたミャンマーの人々は、仏塔や”寺院と呼ばれる建物”において、仏様の前で座り込むようにして熱心に祈っていた。

ガイドさんは「自分のために祈るのではなく、大切な人のために祈るのです。みんな、自分の収入の10分の1くらいを寄付するんです。私もしています。」と明るく説明するのだった。
(私は若い頃、人前で祈ることに強い抵抗があった。今でも、人前で神仏への祈りに没入することはできない。そして、ミャンマーの人々のなかに、私のように、”人前で祈ること”へのためらい・抵抗感を持つ人がいるようには思えなかった。)

 

”うねる瞼”に捉われたスラマニ寺院では、ガイドさんの後を追いかけるのがやっとだった。
それでも、仄暗い回廊を抜けるごとに、風が行き来している装飾的な扉から差し込む外光のやわらかさを感じ取った。

花やビルマ文字(?)などをデザインした扉。
 その文字は、視力検査で、「右」とか「上」とか、輪が切れている方向を答える記号(”C”に似た記号)が連なるように見え
る。その上には、24枚の花びらの紋様が載っている。

 

f:id:vgeruda:20200128140856j:plain施釉(緑と黄の二彩?)された外壁部分:
緑釉陶器より淡い緑。外壁のこの部分が美しく施釉されたのはなぜなのだろう?

 

f:id:vgeruda:20200128140928j:plainスマホを見る少女:
お供えの花を売る彼女の頬には”タナカ”(日焼け止めの化粧品)が塗られている。
金属の扉は光と風の通り道であり、”荘厳”ともなっている。

 

f:id:vgeruda:20200128140946j:plain花を売る少女を見守るような”鬼”(?)の壁画:
牙を持ち、鬼の様相を見せているけれど、瞳が明るく、快活な若者の印象。

 

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     捧げものを掲げる女性の壁画:
     下の絵(原画の描線?)を描き直したように見える。
     女性は、小島功氏が描いた”河童の奥さん”の雰囲気に似ている?

 

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光と風が通る扉:
上には花ビルマ文字、下には向かい合う”蛇身”(?)の紋様。

 

         参考:観光バスの車内に掲げられていた
             24弁の花びら形の”お経”
               (ガイドさんの説明では、仏様を中心に、
                パーリ語の24項目のお経が記されているらしい。)

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ミャンマーで ③ ”うねる瞼”に出会う。

 

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”うねる瞼”:スラマニ寺院の壁画(バガン

 

数年前から、鶴見で開かれている仏教美術の講座に参加してきた。
その講座のなかで、先生が何度か指摘した”うねる瞼”・”つりあがる目尻”を持つ仏像や画像の事例が、ずっと心に引っかかっていた。

先生が指摘した一つの典型例が、岩手県・黒石寺の薬師如来坐像(862年)だった。

 

f:id:vgeruda:20200125233328j:plain”うねる瞼”:黒石寺の薬師如来坐像(「みちのくの仏像」展〔東京国立博物館 2015年〕のチケットから)

先生が”うねる瞼”・”つりあがる目尻”という表現について言及した時、「みちのくの仏像」展で初めて出会った黒石寺の薬師如来坐像が、なぜ異様な強い力を発散していたのか、その秘密が分かった気がした。そうか、あの仏様は”うねる瞼”をしていたのか、と。

そして今回、ミャンマーの旅のなかで、”うねる瞼”に再び出会った(黒石寺の仏様のあの眼だ、そう思った)。

旅から戻って、そのバガンの寺院(スラマニ寺院など)の仏像や壁画に表現された”うねる瞼”の源流はどこなのか?が気になって落ち着かない。

同じような”うねる瞼”が、なぜ、9世紀中葉の黒石寺の仏像と、12~19世紀のバガンの寺院の仏像・壁画において表出するのだろう?

(鶴見の講座では、黒石寺の薬師如来坐像の”うねる瞼”に共通する事例として、「金剛薩埵像 頭部 唐・9世紀 敦煌莫高窟14窟」の画像が示され、9世紀の唐の表現が直接的な形で影響した可能性も?との言及があった。
 また、鶴見の講座で配布された資料を、改めて”うねる瞼”という視点で眺め直してみると、興福寺の「木造仏頭」(運慶作 1186年)、神護寺の「僧形八幡神像」(鎌倉時代)、東大寺の「僧形八幡神坐像」(快慶作 1201年)などにも、”うねる瞼”に通じる表現が感じられるのだった。)

日本では、9世紀中葉と12世紀末といった時代に”うねる瞼”の事例があるとして、それは、どこかでミャンマーでの”うねる眼”に結びつくものなのだろうか、まったく関係の無いものなのだろうか?

それに、昔、TV番組のなかで見たネパールの仏塔の外壁に描かれた大きな眼も、今思えば”うねる瞼”だった。あの表現はいつ頃から定着したものなのだろう?

当分、こうして、ああでもない、こうでもないと、”うねる瞼”の謎にとらわれ続けるのだ。

ミャンマーで出会った”うねる瞼”…私一人だけが抱える謎…がまた増えた…。

 

【スラマニ寺院で出会った”うねる瞼”】

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*壁画のそれぞれの制作年代については情報が少なく、つかみきれなかった(寺院の年代としては12~19世紀とかなりの時間幅をもつが、画期は12世紀・18世紀頃にあるのだろうか?)。
ただ、下段左の白・緑の色調の対比が美しい絵は、耳の形も曲線的で、やや古い時期のような印象を持った。

なお、同じように古い時期の制作?と感じられた壁画には、次のようなものもあった。

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【上:悪魔?と蛇?と仏様、中:象、下左:漁?のようす 下右:下左図左半部の拡大】

 

また、スラマニ寺院だけでなく、次の寺院でも、”うねる瞼”の像に出会った。 

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【左:ダマヤンジー寺院(12世紀建立) 右:ティーローミンロー寺院(13世紀建立)
*ともに、仏像の制作年代は不明。

 

≪補記≫
このように、それぞれの仏像・壁画の表情は個性にあふれ、表現様式は混沌としているように見える。それでいて、上瞼が波打ち、半眼として描かれている点は共通している。
一方、黒石寺の薬師如来坐像の表情は厳しく近寄りがたい点で、ミャンマーのこれらの造形表現とは一線を画しているし、影響が推定される9世紀の唐の画像のやわらかで物憂げな印象とも異質だ。
やはり、黒石寺の事例は、鶴見の講座の先生が想定されているように、「厳しい表情は、神像の表現との関連」や「”神”と”仏”の交渉の産物であった可能性」を考えるべきものであるのだろう。

ミャンマーで”うねる瞼”と出会って、思わず『さまざまな”うねる瞼について、その源流をさかのぼれば、ひとところに行き着くのでは?』と妄想をめぐらせる時間をもったことは、鶴見の講座で、先生の専門的かつユニークな視点に接することができたから…そう思う。) 

 

 

ミャンマーで ②

f:id:vgeruda:20200125120525j:plain渋滞中のバスの窓からヤンゴン 2020年1月20日

 

15日は、機内に1冊の本を持ち込んだ。久しく読むことがなかった村上春樹…その短篇集(『女のいない男たち』文藝春秋 2014年)を選んであった。

途中、いつものように頭痛薬を飲んだにせよ、ビルマまでの7時間弱、6篇の物語世界に順繰りに分け入ることで、いつになくふわふわとした浮遊感のなかで過ごすことになった。
ヤンゴンの空港に着くと、物語世界の浮遊感がそのまま、長く座り続けた脚のふらつき、頭の揺らめきと重なった。

『女のいない男たち』のなかで、若い頃の私が”村上春樹的世界”と感じていた物語空間に通じてゆけそうな感触(既視感)があったのは、「シェエラザード」と「木野」の2篇だった(正確には、かつて味わった感触を探そうとしただけかもしれない)。

そして、私たち一行がぞろぞろとヤンゴンの33度の外気温を受け入れてゆくなかで、”シェエラザード”も”木野”も、速やかに村上春樹的世界”へと退いていった。

 

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綿の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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黄色の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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細く白い花(バガン

 

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リュウキュウミスジに似た蝶(バガン:ポッパ山)

 

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ブーゲンビリアバガン

 

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黄色の花(バガン

 

f:id:vgeruda:20200125105354j:plain夕焼け(インレイ湖畔)

ミャンマーで ①

f:id:vgeruda:20200124210849j:plain 夜空を背景に燦然と輝くシュエダゴン・パゴダヤンゴン 2020年1月15日)
 

ミャンマー…今回の短い旅で初めて訪れたその国について、本当に何も知らなかった(今も何も分かってはいないのだけれど)。

駆け足で巡ったミャンマーから帰ってきた今、改めて、大昔の教科書…おそらくはミャンマーの記述内容にそう大きな変化はないはず?…でミャンマーに関する箇所を探してみた。拾い出してみれば、次のように、それはごくごくわずかなものだった。

【『図説 世界史B 最新版』(帝国書院 1993年)から抜粋・引用】
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・・・ミャンマー(ビルマ)では11世紀、ビルマ民族の国家であるパガン朝(1044~1287)が成立し、スリランカから伝わった上座部仏教(小乗仏教)が国教とされ、多くの寺院が建てられた。この上座部仏教がのちにインドシナ半島の多くの王朝に受け入れられた。・・・(p.121)
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・・・ミャンマー(ビルマ)においては18世紀半ば、トゥングー朝が衰えコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752~1855)が成立したが、タイのアユタヤ朝を滅ぼす一方、インドのアッサム地方にもしばしば侵入した。これに対し、イギリスは前後3回のビルマ戦争(1824~86)によって、これを征服し、インド帝国に併合した。・・・(p.246)
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・・・ビルマ(1948 現ミャンマー)の独立は平和的に実現した。・・・(p.334)
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 これだけですか?…というほど短縮されたミャンマーの歴史。そこに加わる私の断片情報といえば、パゴダ、「ビルマの竪琴」、スーチーさん、ロヒンギャの問題…それくらいだった。

それでも、今回の旅で見たもの、聞いたものは、新鮮に美しくよみがえり、それらの新しい情報で上書きされた新たなミャンマー像が、おぼろげながら立ちあがってくる。

私の記憶がかすんでゆく前に、いつものように、ミャンマーの数日の断片を写真の形でまとめておく。

 

f:id:vgeruda:20200124203232j:plain朝焼けと有明の月(インレイ湖畔)

 

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赤い縁取りの花(バガンティーローミンロー寺院)

 

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白い小さな花(バガン:ケーメンガ寺院)

 

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蓮の花(バガンアーナンダ寺院

 

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黄色の蝶(バガン:タビニュ寺院)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”海と夕焼”

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”海と夕焼”(2020年1月11日16時52分)

2020年1月11日。
夕刻の報道のなかで発せられた「亡国感」という言葉が異様に、そして切実に響いた。

台湾の人々がその言葉から聞き取る響き・意味合いと、日本の私が受け取るイメージとが、どのように重なり、どのようにずれるのかは分からない。

しかし、私の中にも「亡国感」の響きに見合うものが存在する。そんな感じのものが、とぐろを巻いて、日々、苛立ちに身をくねらせていることに気がついた1月11日。

 

 

 

1月8日の月

10日の今夜が満月であれば、8日に見た月は十三夜の月?

東の空では淡くはかなく消え入りそうなのに、中空にあがれば白い磁器の肌を輝かせる。

見つめることが許されるその光、その形の変幻。その詩的な光、その音楽的な形。

 

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