3月1日午後の本白根山:
草津温泉が本白根山の東麓に位置することを初めて実感した風景だった。
白銀の気高い山容…その山体の内部から麓の町へと、豊かな熱水が滔々と流れ下ってくるイメージは、直ぐには湧いてこないのだけれど。
3月3日朝の本白根山
3月2日早朝の林 3月3日早朝の林
3月2日の林
3月3日の林:木のベンチには雪の座布団が。雪道に裸木の影が映り込む。
大谷池の雪
昨年の11月末、初めて草津の湯に浸かった。
わずか1泊ではあったけれど、その酸性度の強い湯は、私の持病(喘息とセットで長々と付き合ってきた慢性的な皮膚の炎症)に、かなりの…驚くほどの?…良い効果をもたらした。
年が明け、ふと目にした新聞に、平塚から草津に直行するバス・ツァーの広告が載っていた。”奇貨居くべし”…もう一度、草津を訪ねてみようと決めた。
3月に入り、草津へ向かうバスに乗り込んだ。
外出によってコロナウィルスに感染する心配よりも、再びあの湯に浸かりたいという気持ちのほうが強かった(ちなみに、用意された大きなバスの乗客は10人に満たなかった)。
再びの草津。
今回の温泉は、前回よりさらに強く個性的だった(眼のふちが、湯にわずかに濡れるだけで、痛みで眼が開かなくなった)。そして、湯の中で皮膚を撫でるとぬるぬるとして、湯そのものの厚みを感じた。
3日間、朝に晩に、せっせと湯に浸かった。
いつになく食事も欲張ったことが災いしたのか、2泊目の夜半、胃も腸も反乱を起こした。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、後悔先に立たず…それでも、翌朝には、立って歩けるほどに回復した)。
宿の周りには林が広がっていた。
夜明けは林越しにやって来るのだった。
小鳥たちは澄んだ声で林間の空気を震わせた。
西の空には本白根山が白銀色の屏風を広げている。
その湯釜の青白いイメージは相似の形で湯畑へ流れ込むのだった。
また、カラマツやアカマツの裸の梢を眺めていると、不思議な調べが彼方の空から流れてくるのだった。
♪クサツヨイトコイチドハオイデ ドッコイショ オユノナカニモ コーリャハナガ サクヨ チョイナチョイナ♪
〈残雪の林のなかで〉
ウリハダカエデの模様
東京でも雪降りとは無縁の2月26日だった。
その2月26日の午後、衆議院予算委員会は野党党首らを質疑者に迎えていた。
そして、夕刻になる頃には、とりとめない思いが浮かんだのだった。
『今日、もし大蔵官僚時代の平岡公威がこの場に臨んでいたならば、どのような表情を浮かべていただろうか』と。*
で、その国会の予算委員会という場。
腕を組み天を仰ぐ人、目を閉じ続ける人、うつむく人、苦笑する人、だらしなく座るだけに見える人…私たちを代表する人々が、それぞれの立場で、それぞれの思惑で、答弁者と質疑者のそれぞれが発する言葉を受け止めている。
2月26日、答弁に立った法務大臣は、その権威の在処を自ら貶め続けた。
権威に寄生するだけの正体を顕わし、拠って立つ権威を毀損して恥じない姿を、臆することなく私たちに見せつけた。
この人は、”鶏が啼く前に三度裏切った”…国会という場で。そう感じた。
議会制民主主義を裏切り貶める者、法治主義を破壊する者が、このように凡庸な姿形で現れ、私たちを騙る言葉を発する。
その現実を改めて、ありありと目の前にした2月26日だった。
*28日になって、一つだけ思いついた平岡公威のイメージとは「鼻をつまんでやり過ごす」というものだった。当時の(大蔵官僚時代の)彼としては、その場で、せいぜい洗濯ばさみで鼻をつまむぐらいではなかったかと思う。
川面で休むカモたち
2月から新しいノートパソコンを使い始めた。まだ windows10 の導線に慣れない。勝手が違って、ウロウロ・おろおろ、無駄な動きを繰り返してばかり。
毎日、頸も肩もズンと重い。我慢が続く。しだいに我慢ができなくなる。そして、楽になりたい一心で、我慢していた頭痛薬に手を伸ばす。
で、そんな自分に対し、必ずウジウジと思うのだ…薬を飲まないで、もう少し頑張れたんじゃないのかと。すると、もう一人の自分が言い訳をするのだ…もうこんな歳になったのだし、我慢することもないでしょうと。
私にとって、無くてはならない喘息の吸入薬と頭痛薬…違法な薬物でなくてよかったと、まじめにそう思う(まったく、なんでこんなに薬に頼ることが疚しいのだろうか?)。
やれやれな日々。やれやれな性分。
昨日は、珍しくどこにも痛みがなかった。喜んで散歩に出た。
相模川は青くゆったりと流れていた。
南風が吹いてさざ波が立ち、川面のそこかしこに、艶やかな黒髪を梳きためたような美しいたわみが生まれている。カモたちの群れも、ただ波にたゆたって、温かな陽ざしに安らいでいるように見えた。
私も、陽ざしとさざ波に満たされ、久しぶりに深い呼吸をした…細胞にも血液にも筋肉にも、薬とは違う”何か良いもの”がしみわたった気がした。
旅から帰ったあと、東京で友人たちと食事をした。
ミャンマーの旅に話題が及び、友人から「なぜ、ミャンマーに?」と問われた。
とくにこれといった思い入れはなく、家族の旅に同行した私は、その「なぜ?」という問いに戸惑った。
さらに話題は進み、友人はロヒンギャ問題についてのスーチーさんの対応が不満だと言うのだった。ここでは、もっと困った(友人は、スーチーさんにがっかりした気持ちになっているのだし、それはそうなのだったし…)。
ただ、ガイドさんが旅の最後に、ロヒンギャ問題に対する思いを私たちに訴えるように話したこと(ミャンマーやスーチーさんに対する国際的な批判報道が偏ったものであると考えていること、自国がまだまだ貧しいと思っている国民にとって、異教のムスリムの強さ…例えばその信仰や一夫多妻により子供が多いことなど?…への恐怖感があること、極端に言えば、将来的にムスリムに自国を乗っ取られるのでは?というような恐怖を感じていることなど)を思い出さないではいられなかった。
もちろん、ガイドさんの語る”危惧”が、宗教ナショナリズムの流れから生まれた杞憂に過ぎないかもしれず、そのやや内向きの認識について、友人が納得するわけもなかったけれど、スーチーさんの政治的な言動の背景には、ミャンマーの人々の現実の声があることは確かなのだと思ったのだ。
むずかしい…何事も。
『仏教の国ミャンマーで、僧侶をはじめ、現世で功徳を積む善良な人々の良心は、難民に対する差別や迫害の問題について、これからどのような答えを探してゆくのだろう?』
今、そんなことも思う。そして、同じようなことが、私たちにも問いかけられているのだろうと思う。
さて、ミャンマーで、私はいったい何を見てきたのだろう。
旅の写真の数々をもう一度眺めてみる。
そこには、何も考えずにシャッターを押し続けた観光客の目があるだけなのだった。
そして、次の旅に出かけたとしても、やはり観光客の目のままで終わりそうに思うのだ。
「なぜ、旅に出るのか?」・・・私の正直な答えは、たぶん、「日常ではない時空間へと羽ばたきたいから」という、ただそれだけのことらしかった。
【カメラで見てきただけ…その数々】
浮島の家(インレー湖)
インレー湖のほとりー窓ガラスに咲く花(ヘイホー)
花を持つ人(マンダレー) パオ族の人(カックー)
19世紀の木彫像(シュエナンドー僧院 マンダレー)
19世紀の木彫像:”守護神”(旧王宮 マンダレー)
森に浮かぶパゴダ群(ミンナントゥ村で バガン)
夕刻のレイミャナー寺院(ミンナトゥ村で バガン)
早起きが多く慌しいミャンマーの旅。
それでも、宿の庭に出れば、異国の野鳥が啼き交わし、旅心が湧きあがった。
帰宅後、撮りためた写真のなかから野鳥を拾い出し、その名前を調べてみる。
なかなか分からなかった鳥の名前は「ビルマヤブチメドリ」。
名前のなかに”ビルマ”があり、その目つきも好ましい(性格俳優らしい面構え?)。
スズメも日本と違う印象だったけれど、それは”イエスズメ”という名がついている。
こうして、出会った生き物たちを、カメラで撮らないではいられない。
たぶん、人一倍忘れっぽい…見る力・観察する力、それをデータとして記憶する力が欠けている…から。そして、レンズを通して追いかける時間のなかで、我を忘れることができるから。
でも、どこか、カメラに頼りっきりな自分が疚しい。カメラが無くても、物事をもっとしっかり”観る”ことができる人になりたい。
そう思いながら、いざとなると、やはり後生大事にカメラをぶら下げて、旅に出てしまうのだった。
イエスズメ(アーナンダ寺院 バガン) カノコバト(バガン):首に注目。
インドハッカ(バガン):”悪”そうな顔? シロガシラムクドリ(バガン)
ミドリハチクイ(バガン):特徴的な長く細い尾。