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私の第三十四夜をつづります。

”I can't breathe” から ”I Have a Dream” へ。

 

”I can't breathe”

ジョージ・フロイドさんが最期に発したその象徴的な言葉が、私には何ともいえない響きで迫ってくる。
息ができない…その現実的・肉体的な恐怖も迫ってきて苦しくなる。

 

『今夜も吸入しなければだめなのか…』
『今朝も吸入してしまった…』
(この麻薬に手を出してしまったような疚しさは、吸入薬による一時的な快楽を知るからこそ湧き出てくるものだ。)

 

小児喘息の時代は、台風の季節に発作が起きた。特に、夜になるとひどくなった。
子どもながら、親に訴えることもなく、一人で闇の時間をやり過ごした。
それでも、今よりはずっと明るく頑張る力を持っていたらしい。

暗い部屋に、自分の奇妙で複雑な呼吸音だけが響く。
(私は、自分の身体が発するこの音を、他人にはもちろんのこと、家族にも聞かれたくなかった。いつも、苦しいリズムの呼吸音を無理やり抑え込む努力をした。今思えば涙ぐましい努力だ。あの頃の私は、なぜ、喘息の呼吸音を隠したかったのだろう?)

苦しくて眠れない夜。
やむなく起き上がるしかない。
そして、眠りたい欲望との葛藤。
蛙のようなうつ伏せ姿で寝てみたり、椅子に腰かけて眠ろうとしたり。
子どもだった私は、自分にだけ課せられた”孤独な修行”に対して、厭世的にも、自暴自棄的にもなることなく、あれこれと試して乗り越えようとした。

やっぱりダメか…。
最後の最後には、”メジヘラーイソ”をシュッと一吹きする。
魔法の薬だった。いつだって、すぐに絶望的な拷問から解き放たれた。夢見るような心地のあと、じきに、とろけるように眠りの世界に入っていった。

そんな喘息も、大人になって影を潜めるようになった。

それが老齢期に入ると、再び、じわじわと日常に姿をあらわすようになる。今度は、季節を問わなくなっていた。そして、処方される吸入薬も、昔とは様変わりしていた。

で、この数か月、そうした息苦しくなる場面が頻繁となって、吸入薬の残量の目盛りは目に見えて減っていった。

吸入薬をセーブした日に、マスクをつけて駅の階段を昇りきったあとは、溺れ死ぬような苦しさに陥った。心臓が喉から飛び出しそうな、肺がパンクしそうな喘ぎにうろたえて、慌ててマスクをゆるめる。
アップアップとエラ呼吸をする金魚のように、しばらくの間、呼吸は大きく乱れ続ける。

吸入薬をめぐる駆け引き…薬で楽になりたい私と我慢したい私との駆け引きが続いている。

 そんな息苦しい駆け引きが続く日々のなかで、今回の”I can't breathe”という言葉と、その意味合いを知った。

また、”I Have a Dream”という、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏の言葉も知った。 

I Have a Dream” … 今や、私にとっては虚しい言葉だ。でも、本当は、誰もが忘れてはならない言葉であるはずだ。

そして、誰もが、あらゆる”息苦しさ”のなかにあっても、”I can't breathe” から ”I Have a Dream” へと、向日的に進んでゆくべきなのだろうと思う。

ならば、これから私は何を目指そう、どこに向かおう…生きている限り、それを考え続けなければならない…。

 

 

【6月10日午後:吸入を我慢して海に出かけた途中で…】

f:id:vgeruda:20200610151105j:plain松林に住む?トンビ:
ブツ切りにされた松のてっぺんの、一番眺めの良い場所で強い風に吹かれていた。

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(長い時間、こんな場所で何をしているのだろう?)

 

 

 

 

 

 

 

富豪が語る”憂い”

 

つい先日、ネットの経済記事のなかで、”bullshit job”という言葉を初めて知ったばかりだった。
続いて昨日、『朝日新聞』のインタビュー記事「新型コロナ 富豪が憂える資本主義」(ニック・ハノーアー:起業家・ベンチャーキャピタリスト)を読んだ。

彼は、「使えるお金に限りがないのは楽しいものです」と、自嘲的?とも受け取れるような受け答えをして語り始める。
その鋭い眼差しを持つ富豪の、机上から離れた、血の通った主張は、経済学を知らない私にも、痛快に、ストレートに伝わってきた。

そして、『富豪のなかにも、こんな風に考える人もいるのか…』と、これまでのモヤモヤした”胸のつかえ”を、ようやく的確に診断してもらったような気持ちになった。

読んだインタビュー記事に励まされた気持ちのまま、午後になって海に出かけた。

外に出ると、さほど気温が高いようには感じなかった。海に近づくほど風は涼しくなってゆく。この海風にどれほど救われてきたことだろう。
(帰宅後に読んだ安曇野の友人のメールには、「今日は気温34度。北の窓から熱風が…」とあった。こちらがまだ26度前後なのに?)

 

浜辺は、休日のような人出だった。

富士も大島も薄曇りの空に隠れ、どこか、コロナ禍の世界に通じるような色合いの海が広がっている。

カイト・サーフィンで波間を疾走する人を眺めた。強い風圧に対抗して撓むであろう、全身の筋肉の収縮を思い描いた。

しばらく、肌寒さを感じるまで海の風にさらされていると、新型コロナと新自由主義に席巻されている2020年の現実世界が、すっかり、どこかに遠のいてしまうのだった。

 

f:id:vgeruda:20200606104905j:plainカイトサーフィン①

f:id:vgeruda:20200606104956j:plain カイトサーフィン②

 

【波打ち際で】

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コロナ禍の日々に読む物語

 

コロナ禍のなかで読みたいと思ったのは、エリック・マコーマックという人の小説(物語)だった。
苦手な翻訳本だったけれど、休館前に図書館で『ミステリウム』を借り、休館中に『パラダイス・モーテル』を予約して借り足し、さらにネットで『雲』を注文した。

社会人になって小説(物語)を読む機会はめっきり減ってゆき、60代以降はまったくと言ってよいほど手が出なくなった。なのに今、続けてE.マコーマックという人の本を、しかも翻訳本を続けて読む気になったのは不思議だ。

たぶん、コロナ禍の日々の非現実的で単調な心理空間から、マコーマックの創りこまれた騙し絵のような架構世界へと旅に出ると、澱んでいた脳味噌がしばしグルグルと撹拌されて心地よかったからだ。

『雲』を読む段になってようやく、マコーマックという創り手の鮮やかな手さばきに自分ののろまな視力が少しずつ追い着くようになってきた。

そして、若い頃に倉橋由美子に夢中になった時の気分を思い出したりした。

次はまた、図書館でマコーマックの本(物語)を借りてこよう(この気持ちはどこか、新しく見つけて気に入ったお酒を、いそいそと買いにゆくのと似ている気がするのだけれど)。

 

f:id:vgeruda:20200604122340j:plain6月の黄葉(街路樹のネムノキ):じきに、夢見るような花の季節がやってくる。

「傘は要らない」

 

とうとう6月。そして朝から雨。

ネットや新聞やTVからあふれる世界と日本のできごとが、朝からの雨で降り込められ、自分の内側に向かってくる。それらのできごとから生まれた痛みが、湿度をもって、こちらへと伝わってくる。

まず、ネットで観た動画に胸が苦しくなった。それは、アメリカの黒人が警察官からすさまじい暴力を受けている姿を、いくつもいくつも集めたものだった。そこに写る黒人の男性も女性も、ほとんど防御の姿勢をとるだけだった。アメリカ社会のなかで学ばせられたようなその姿が悲しかった。

また、午後になって目にしたのは、40年前の韓国の光州事件をめぐる映画だった。国家がためらいなく市民に銃口を向けた歴史的現実に、眼の奥が収縮するような痛みを感じ、涙が止まらなかった。

自由や社会的公正さというものが、自分の日常や生命と引き換えにすることで手に入れるものなのだとしたら、私はまだそれを手に入れてないのだと考えないわけにはいかなかった。何だか、頭がぼんやりと重くなった気がした。

夜になって、ようやく、いつものような感覚に戻っていった。
(その間、なぜか、1973年の「金大中事件」の舞台となった飯田橋のホテルのことや、1970年代後半にはまだ大掛かりなストライキがあったことや、さらには中曽根内閣がおし進めた国鉄民営化のことなど、当時の記憶がとりとめなく断片的に湧き上がってくるのだった。きっと、午後に観た映画のなかで描かれた1980年の韓国の姿から、当時の日本の姿について思い出そうとしたからなのだった。)

それにしても、と思う。
1980年前後の日本の現実。1980年5月の広州の現実。2020年5月のミネアポリスの現実。それらに比べ、私の2020年今の現実の何と希薄なことだろうと。

 

f:id:vgeruda:20200602005918j:plain雨のあとで(6月1日 人魚姫の公園)

カタツムリとトンボ(平塚海岸の林で)

 

5月後半、思いがけない場所で、かなりの数のカタツムリの姿を目にした。

子どもの頃は、生垣のどこかに潜んでいたカタツムリだったけれど、最近ではまったく見かけることがなかった。(ちなみに、身近な場所からカタツムリの姿が消えていることに気づいたのは、市博物館が市民に”カタツムリ調査”を呼びかけていることを知ってからのことだった。私の場合、実際に、散歩の折にカタツムリを探し始めてから半年以上、一つも見つけることができなかった。)

なので、ふと歩道脇に小ぶりのカタツムリを、しかもいくつも見つけた時は、『ワッ! こんなところに?』と嬉しくなった。(ただ、角を出したカタツムリらしい姿ではなかったのが残念だった。)

それにしても、私たちの暮らしは、カタツムリが身近だった環境から、なぜこんなにも遠ざかってしまったのだろう? 

 

f:id:vgeruda:20200529230255j:plainオナジマイマイ?(5月25日):
昔なら、つやつやとしたマサキなどの葉陰で見かけたのに、こうした日なたのフェンスなどの上では這いにくかろうに、と思う。

 

f:id:vgeruda:20200529230349j:plainショウジョウトンボ(5月28日):
近くには池など無いけれど…どこからやってきたのか? そういえば、アキアカネも海岸通りの空をピュンピュン群れ飛ぶのだった…。

 

 

2020年5月に思う。

f:id:vgeruda:20200524160037j:plain 浜辺で暮らす猫

 

2020年5月もそろそろ終わってゆく。
人魚姫の公園の色とりどりの薔薇たちも、重く重なり合う花びらをはらはらと散らしはじめている。早くも、次の季節へ向かう兆しを見せている。

人間もあんなふうに、心や肉体や生活を覆う皮膜を季節ごとにはらはらと振るい落とせるのなら、どんなに軽やかで気持ち良い人生だろうといつも思う。

一方、コロナ禍に襲われた2020年春~初夏の社会は、否応なしに新たな時代へと押し出されてゆくようだ。そして、その行く先の見えない新しい流れとは別に、一つの流れの道筋も見えてきた。ようやく、その澱んだ道筋を俯瞰して捉え得る時期に来たのだと気づかされた。

それは、現政権によって続けられてきた政治的パワーハラスメント、その理不尽な振る舞いによって社会に生じた無数の傷跡が、今や人々の目に網羅的な形で見えるようになった…そういう流れの道筋だ。

そうなのだ。
私(たち?)は今こそ覚醒し、その流れと訣別し、一人ひとりそれぞれが、新たな道を模索するべき時期を迎えているのではないか。

私はといえば、昨夕の報道番組の冒頭での、痛烈な皮肉を込めたキャスターの言葉に改めて気づかされたのだ。

「”無意味なお詫びの繰り返し”というギネスブックの記録はまだありません。」

そうなのだ。
これまでの私(たち?)の社会は、あたかもDVにも似た構造のなかで、現政権による政治的な嫌がらせにさらされ、政治への信頼を踏みにじられ続けてきた…そのような関係性のなかで力なくもがき続けてきたと気づかされたのだ。

この数年間、私(たち?)の抗議と抵抗の叫び声は、そのつど、”無意味なお詫び”によって無効化され、そのつど、虚偽と隠蔽の振る舞いによって、未来への希望と公正な社会の姿を見失い、無力感と怒りに満ちた空間へと押し戻されてきたのだった。

そうなのだ。
理不尽で不可解な政治の流れを阻止するための突破口は今回こそ見つかる。新しい社会への出口は近づいている。

ルイ14世」的とも例えられた現政権の振る舞いを受忍し隷属する日々から脱出し、コロナとの共生の道を探りつつ、一人ひとり、それぞれの新しい生活へと、勇気を出して一歩を踏み出す機会がとうとう巡ってきたのだ…そう信じ始めている2020年5月。

 

【5月の季節のなかで】

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マツヨイグサ              トキワツユクサ

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ネズミモチ?              ハコネウツギ

 

 

 

図書館へ出かけるということ。

 

先週半ばから図書館の予約受付が再開された。嬉しいニュースだった。

思えば十数年前頃からだったろうか。
身近な図書館・博物館・美術館などの文化施設が、財政・経済効率上のさまざまな締め付けのもとに、本来の運営に発揮すべきエネルギーを消耗し、疲弊してゆくのではないかと感じるようになった。

さらに追い打ちをかけるように、今回のコロナ禍は、地域の文化施設が積み上げてきた地道な努力や活動を停滞させることとなった。

ただ、その反面、こうした文化事業の公共的な役割、それらが存在し持続することの意味合い…その存在の場が失われたり、その存在の役割が変質しては困るのだということ…を、人々に思い起こさせるきっかけになったのかもしれなかった。

どこかで、もう元通りの生活には戻れないのかも…という漠とした不安は消えないけれど、とにかく、予約した本を受け取りに図書館に出かけるという生活ルートが、息を吹き返した。こうして、よどんだ生活のなかで、少しずつ、息を吹き返すことが増えてゆきますように。

 

【人魚姫の公園で】

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