今春見学するのを楽しみにしていた「法隆寺金堂壁画と百済観音」展。
結局、コロナ禍で見学の機会を失い、百済観音様は法隆寺にお帰りになった。
その見学の代わりにしようと、図録『特別展 法隆寺金堂壁画と百済観音像』(朝日新聞社 2020年)を取り寄せた。
そもそも、私の特別展への期待は、”百済観音像”を東京で拝すること(東京でお姿を拝するのは、1997年の冬以来二度目となるはずだった)…その一つに絞られていた。
しかし、実際に身近に図録を眺めてみて、図録の大半を占める”法隆寺金堂壁画”に関しての内容にも惹きつけられた(自分でも意外だった)。
まず、巻頭の「大英博物館に所蔵された法隆寺ー金堂壁画と百済観音の複製の意義について」(彬子女王)を読み、次に巻末の「百済観音像誕生の謎(三田覚之)を読んだ。どちらの論考も、初めて知る要素が散りばめられていて新鮮だった。
(ことに、三田覚之氏による百済観音の造立背景についての考察には、グイと心をつかまれた)。
そしてまた、図録を手にして最初に眼を見張ったのが、表紙を飾る観音様の顔だった。それは、昔の10円切手などで見知っていたはずの図柄だったけれど、今回改めて気がついたのは、その”上瞼”の描線だった。
その”上瞼”の描線は、あの”うねる瞼”を思わせた。
鶴見大学の仏教美術の講座で教わった、あの”うねる瞼”に通じるニュアンスが、そこにもあった。つい、ワクワクした気持ちになった。
黒石寺の薬師如来像の”うねる瞼”、またミャンマーの寺院で撮った仏様たちの”うねる瞼”に通じるニュアンスが、法隆寺金堂壁画(第六号壁)の観音菩薩像の眼にも描かれていた。
内面に没入しきって、魂が抜け出てしまったことにも気がついていないような半眼。
焦点を結ばない宙に浮いたような視線、生命の光を消失しつつあるような物憂げな瞳。
そうした半眼をより強調するための”うねる瞼”…そう感じた。
でも、なぜだろう?
なぜ、この半眼が、この”うねる瞼”が必要だったのだろう?
(「法隆寺金堂壁画 ガラス原版 デジタルビューア ウェブサイト」で、他の壁画の像の上瞼を拡大して見ても、像の全てが”うねる瞼”のニュアンスを湛えているわけではなかった。ことに一号壁の観音菩薩像の眼は”うねる瞼”を持たず、むしろ知的な光を感じさせるものだ。当時、”うねる瞼”を描くことが、一様に守るべき「決まり事」ではなかったようだ。)
当時、第六号壁の観音菩薩像を描いた工人は、その視線の表情を伝え残すには、その”うねる瞼”の描線を選ぶしかなかったとして、ではなぜ、その視線の表情・ニュアンスを必要としたのだろう?
”うねる瞼”によって、何を伝え残したかったのだろう?
私にその答えが分かるはずもないけれど、”うねる瞼”は問いかけをやめない。
その後も、時折、図録を開き、写真・図版を眺めたり、解説頁の拾い読みを続けている。
私のそばで詳細な解説付きの常設展が開催されている…図録はそんな場所だ。
(これは、コロナ禍転じての”ささやかな”福”かもしれない。もし、実際に特別展を見学していたのなら、そのまま満足し、重くかさばる図録に手が伸びなかったと思うから。)
【”うねる瞼”:過去の記事で掲載した写真から】
黒石寺の薬師如来像 スラマニ寺院の壁画(バガン)
〔「みちのくの仏像」展のチケットから〕
【法隆寺金堂壁画の”うねる瞼”:図録『特別展 法隆寺金堂壁画と百済観音像』(朝日新聞社 2020年)から】
左:表紙の一部 右:表紙の”うねる瞼”を強調してトレース
【昔の10円切手】”うねる瞼”のニュアンスは読み取りにくい。
~百済観音展のチラシから(1997年に東京で開催)~
衝撃的な展示に圧倒された。
その時の衝撃が今も忘れられず、私のなかで美化され続けている。