enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

もうすぐ春が ♪

f:id:vgeruda:20210131221921j:plain1月30日の空

 

 

昨秋から職務怠慢を決め込んでいた胃を、年を越えてようやく少し飼いならしはじめた…と思っていた。

気が緩んだとたん、いつになく、口唇ヘルペスを悪化させてしまった。それも、処方された薬を飲み終わると、何とか一段落したようだった。

 

30日は風もなく温かな日になった(日陰にさえ入らなければ)。

気分転換しようと、午後、水辺の楽校に出かけた。

 

相模川の堤防から見る富士はバタークリームを塗ったように白く、大山は青い屏風のような山並みを広げている。

穏やかな流れの向こう岸近くには、オオバンやカンムリカイツブリののんびりとした姿。

 

川べりの広々とした畑は、小さな緑を生やしたり、球根を宿したりして、近づく春を待っていた。

冬枯れ色の道をたどれば、左右の藪のなかでアオジたちが啼きかわし、いち早く飛び立っては、再び藪深く身を隠すのだった。

また、川の水が流れ込む小さな水溜まりを目掛け、キジバトたちが飛来する。やがて、その順番を待つようにヒヨドリたちがやって来る。そして、水溜まりの奥でチャチャっと素早く水浴びするのだった(それは、”カラスの行水”より短い)。

いいな。みんな。
みんなの時間に、コロナなんか関係ないや。
もうすぐ春がやって来るね。

それは、光あふれる季節だね。

 

f:id:vgeruda:20210131221943j:plain春を待つ”お花畑”のなかを走り回るハクセキレイ

 

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待ち針のように小さなトゲナシノイバラ(?)の実


 

 

 

 

 

 

虚ろで哀しい”うわごと”

 

2021年1月も終わろうとしている。
もうすぐ春が来て、また夏がやって来る。

世界が新型コロナウイルスに覆われてから一年。

今なお、弱々しい”うわごと”が繰り返し聞こえてくる。

♫ 五輪は? と問えば ♫

 「安心・安全な大会を目指し…」
 「人類がコロナウィルスに打ち勝った証しとして…」

耳の穴に虚ろな響きが木霊する。
理解不能な言葉は、アオバトの啼き声のように哀しいものだ。
(そういえば、あの「カオナシ」が発する声も、アオバトのように哀しい響きだったような…)

日本政府は、昨年来、コロナウィルスに打ち勝つ意欲を示し続けているけれど、このところの私は、昨冬の蜂窩織炎、現在の口唇ヘルペスと、細菌やウイルスに負け続けている。

正直、うんざり。

私も、ぜひ、細菌とウイルスに打ち勝った証しとして、安全・安心な日々を過ごしたい…今夏と言わず、今すぐに。

【人魚姫の公園で(1月25日)】

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黄色の「クロード・モネ」         固くつぼんだ「織姫」

 

 

前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦のこと。

 

相模国府について学んでいた頃、市内で発掘・調査されたさまざまな遺構や遺物の性格・背景について、あれこれ想像(妄想)して飽きなかった。

来る日も来る日も、妄想していた。
平塚市史 別編 考古』の抜刷をヨレヨレになるまで使い込んだ。さまざまな資料から得た雑多な情報を、その抜刷や基礎資料集成や新旧の地形図などに書き込んでは妄想の網を張りめぐらした。

また、調査報告書を読むことにも果敢に(?)挑戦した。しかし、学問というものの基礎・土台を欠いていたので、結局、ほとんど理解できなかった。それでも、本当に楽しい時間だった。

そうした生活から遠のいて、10年以上の時間が過ぎた。
今の私ができることと言えば、ネット上で時たま出会って気になったことを書き留めておくことぐらい。

先日、いつものようにネット上で眺めていた論考(「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」門脇佳代子 渡邊泰伸 2016年『東北福祉大学紀要』第40巻)に、シンプルな古代瓦の写真が載っていた。それは素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真だった。

気になったのは、そのシンプルな文様の瓦が、前鳥神社平塚市蔵の瓦と似ている?…と思い出したからだった(古代瓦について、およそ何の知識も持たないというのに大それた関心だ)。

ネット上の韓国出土の瓦の写真に、ちょっとワクワクしながら、その報告(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26)の抜刷を探し出した。

意気込んで、ネット上の素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真(図12 福島市 腰浜廃寺出土、図13 広島市 寺町廃寺出土、図14 熊本市 鞠智城出土、図15 韓国 扶余市 軍守里廃寺出土)と、抜刷の素弁蓮華紋軒丸瓦(第10図 前鳥神社蔵瓦(3)軒丸瓦・垂木先瓦)を見比べる。

 

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前鳥神社蔵瓦(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26から)

 

素人の眼でザックリと(つまり当てずっぽうで)見比べると、抜刷の前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7は、ネット上の写真(図12~図15)の寺町廃寺(広島市)出土の瓦(図13)、もしくは軍守里廃寺(韓国)出土の瓦(図15の2点のうち、右側の1点)に似ているように見えた。

次に、うろ覚えだった前鳥神社蔵のシンプルな軒丸瓦について、復習してみた。

抜刷の論考の流れから推定すると、前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7)は、飛鳥寺式の軒丸瓦(「第11図 素弁蓮華紋軒丸瓦(奈良国立文化財研究所1998より引用)」)との比較から、「飛鳥寺Ⅰa式(桜花形花弁「花組」)」の瓦に通じるものと考えてよさそうだった。

また、ネット上の論考の流れでは、素弁八葉蓮華紋軒丸瓦は、7世紀後半の陸奥国における渡来系移民の活動を示唆する、傍証資料のような位置づけで紹介されているのだった(論考のテーマは、あくまでも”陸奥国色麻郡所在の渡来仏”としての船形山神社御神体であって、古代瓦ではないのだ。)

ここで、いつものように安易な私の妄想が始まる。

ネット上の論考のタイトル「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」のなかの、「色麻(しかま)郡」の文字に引っかかりを覚えたのだ。

まず、古代の「陸奥国色麻郡」には、移民郷として”相模郷”が存在したことが知られている(『和名類聚抄』には、色麻郡の郷名として「相模」・「安蘇」・「色麻」・「余戸」が載る)

また、現在の宮城県色麻町の北東約15㎞に位置する三輪田遺跡古川市長岡)からは、「大住団」と推定される文字が記された木簡が出土しているのだ(「大住団」は、相模国大住郡に置かれた軍団の名。また、現在の平塚市は大住郡に含まれる)

つまり、宮城県古川市辺域相模国府について学ぶ者にとって、見過ごせない地域なのだった。
この点についても、20年前の企画展の図録『東へ西へ 律令国家を支えた古代東国の人々』〔2002年 横浜市歴史博物館〕)を頼りに、改めて復習することになった(それにしても、手持ちの資料はすでに、ふた昔前のものばかり…)。

過去に学んだことを朧気に思い出しながら、7~8世紀の宮城県古川市辺域には、相模国の人々や、相模国を経由した人々が移り住み、新しい生活を切り開いていったのだな、と改めて遥かに想いをめぐらす。

妄想はさらに飛躍する。

『例えば、韓半島の瓦制作技術を持った人が、移民政策のもと、相模国経由で陸奥国へと移住した可能性のなかで、瓦制作のためのサンプルとして瓦製品を持ち運んでいたかもしれない。そのサンプルのなかに、前鳥神社蔵の軒丸瓦も含まれていて、何かしらの事情で、相模国府域やその周辺のいずれかの地点に遺されることになった?』などという妄想に。

もちろん、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦が、いつ、どこで、どのように作られたのか、或いはまた、いつ、平塚のどの地点に、どのようにもたらされたのか、明確なことは分かっていない。

しかし、『平塚の古瓦ー高林寺出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー』の論考においては、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦の出自は「あまり明確でない」とされつつも、「大住郡内の初期寺院の存否にかかわる」として、今後の課題がはっきりと提示されている。

そうなのだ。
相模国府域やその近辺に初期寺院が存在したのならば、相応の時期の瓦が掘り起こされるはずなのだった。しかも、かなり大量に…。

今後、”前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦”は、このままひっそりと収蔵されるだけで終わってしまうのか…それともいつの日か脚光を浴びる時が来るのか…私の妄想と期待は続く。

 

【追記】

今回、古代の瓦について、ふと思い出したことの一つに、沼田頼輔氏による「相模國府遺址に就いての一考察」(『考古學雑誌』第17巻第6号〔1927年6月5日 日本考古学会〕 )という論考があり、久しぶりに読み返してみた。 

この論考のなかで、沼田頼輔氏は「相模の國府の大住郡大根村【註】八幡の附近にあることを豫定して居つた」と記している。【註:正しくは「大野村」と思われる】

この「大住国府=平塚」説は、やがて、鋭く卓抜なものだったことが分かる。
その後、平塚市内の発掘調査は進展し、2004年に至って、平塚市四之宮で相模国庁跡が発見されたのだ。

つまり、相模国庁跡が掘り起こされた四之宮地区は、南の「八幡」地区と接していて、沼田頼輔氏が、約80年前に「八幡の附近」と想定したことが、ほぼ的中していたことになる。

そして、相模国府が「八幡の附近」に存在する…と想定した氏の論考は次のように続く。

 「…ところが、偶然にも昭和二年十月、友人が地質研究のため、この地方を蹈査した、大根村【註】八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近に於いて、平安時代の古瓦の破片を發見して、余に贈られたので、愈(いよいよ)こゝにこの時代に於いて、寺院か官廳かは未定なるも、少なくともこの時代の建築物のあつた事を認めたのである。余は姑(しば)らくこの建築物を以つて、國府関係のものであることを認めて置く。」
【註:正しくは「大野村」と思われる】

ここで、沼田頼輔氏が言及している平安時代の古瓦」については、すぐに平安時代相模国府関係の建築物に結びつくような質・量であったのか、今となっては知り得ない。
(ちなみに、以前、この論考を眼にした際に、平安時代の古瓦」が発見されたという「八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近」とは具体的にどの地点だろう?と、少し思い巡らしてみたことがあった。
「標杭」なるものを設置する場所の目安として、公共的で変動の少ない建造物が選ばれるとすれば、そうした建造物としての”北向観音堂”を含む、現在の坪ノ内遺跡の一帯だろうか?というのが、当時の私の…根拠無き…推定だ。)

こうして、今回も「分からないことが分かった!」という堂々巡りに終わることとなった。

ただ、今回の前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦から積極的な問題提起がなされているように、平塚市内出土の古瓦の調査結果から(せめて、四之宮・八幡地区の出土現況から)、どのような問題提起が成り立つのか、それを知りたいものだ…という思いが湧いてきたのだった。

(それにしても、「大住国府=平塚」説を提唱した沼田頼輔氏を含め、さまざまな相模国府説を展開した人々のほとんどが、2004年の相模国庁跡発見という画期的な考古学的成果を見届けることが叶わなかった。
結局、誰もが、その限りある人生のなかで、未来に達成されるはずの画期的な調査結果を、心行くまで見届けることは叶わないのだなぁ…。)

変わることなく、雲は薔薇色に。

f:id:vgeruda:20210111203332j:plain1月10日の夕焼け(平塚漁港から)

 

2020年という1年は、すでに過去の時間として鎮まった。

時に楽天的で、常に雑駁な私は、何となく(根拠無く)そう思い、ちょっと安心したのだった。

しかし、新たな2021年は、淡々と・着実に…かつて、語彙の乏しい権力者がたびたび口にした言葉を使えば「粛々と」…時を刻み始めている。世界じゅうの人々の暮らし方をコロナ禍によって大きく変質させたままに。
当たり前だけれど、世界の様相の現在は、まるごと昨日の続きなのだった。

 

一方、私の脳味噌は、コロナ禍を経ていっそう干からび、取返しがつかなくなっているようだ。何も始まらないし、何も加わらない脳味噌は、それでいて居直っている。為す術が無い…そういうことでもあるのだ。

だから、たまに、干からびた脳味噌が嬉しそうにうごめく一瞬が私にはとても貴重だ。

先日もそんな一瞬があった。
それは AFP BB News のなか(動画:河南省で隋代の漢白玉石棺床墓を発見【2021年1月6日 17:15 発信地:中国】にあった

いつものように『AFPはなぜ、考古学、それも中国の発掘調査に、こんなに詳しいのだろう?』と不思議に感じつつ、動画を見ていた。
すると、アッ!というものが目の前を流れていった。それは確かに、あの”うねる瞼”だった。何度も何度も、動画を止め、拡大し、その”うねる瞼”を確認した。

確固とした”うねる瞼”は、“中国河南省安陽市で発見された隋代の墓の漢白玉(大理石の一種)製石棺床の緻密な彫刻”のなかの、一面二臂(?)の”神の王”(?)の像のものだった。

その顔は仁木弾正のように男前で威厳があり、その肉体も知的な逞しさ(?)を感じさせるものだった(そういえば、その顔は、東寺講堂の帝釈天半跏像の壮年期のものか?と妄想できそうな雰囲気を持つ)。

そして、動画の記事のなかに、次のような説明があった。 

【…棺床の各部には各種図案が彫刻されていた。屏風型の図案には被葬者の日常生活や宗教故事が描かれ、正面2所の格狭間(こうざま)には霊獣が彫られていた。格狭間の両側には楽器を持つ人がおり、棺床の両端には神の王が配されていた。いずれもゾロアスター教の風格が色濃く表れていた。

安陽市文物考古研究所の孔徳銘 所長は、被葬者の麹慶(きく・けい)に代表される麹氏一族について、隴西地方(現在の甘粛省)で長期間生活し、シルクロードの要路を勢力下に収め、欧州や西アジア中央アジアの文化の影響を深く受けていたと説明。「墓内の棺床とそれに施された仏教とゾロアスター教の影響の色濃い数十個の浮き彫り図案は、シルクロードの東西文明が互いに交流し、影響を与え合ったことを歴史的に証明している」と述べた。…】

私には、ゾロアスター教の神の王について何の知識も無く、動画のなかで彫刻の全体像を詳細に確認できるわけもないけれど、ただただ、「隋の開皇10(590)年に麴慶(きく・けい)夫妻を合葬した墓」に刻まれた”うねる瞼”に、眼を見張ったのだった。

そして、”うねる瞼”の表現というものが、中国の古都・安陽市の6世紀末の墓の浮彫(しかもゾロアスター教文化の影響を受けた浮彫)にまで、確実に遡ることができるのだ、と分かって心が躍ったのだ。

こうして、心のほうはまだ干からびるまでには至らず、時に、夕暮れの空の美しさも感じ取ることができる…そんな巣籠もり暮らしが続く。

 

 

生きてゆく。それだけ…。

 

2011年は東日本大震災と還暦の年だった。
10年後の2021年は COVID‐19 延長戦と古希の年…せっかくの新年も、さらに困難そうな予感しかない。

『生きてゆく。それだけ。』 
ぐずぐずと思いあぐねて費やす時間は、日々萎れてゆく肉体のためにこそ使うべきだろうと、心の声がつぶやく。

 

2021年1月2日。
いつもの年と同じように、今年も大磯の長兄宅まで出かける。
午後の街には”お正月三が日”の気配がほとんど無かった。
(もちろん、箱根駅伝の応援帰りの人々の姿も見当たらない。)

ひたすら東海道筋を歩き続ける。
近づいてくる高麗山の変わらぬ姿に、やはり心が動き、安心する。
なつかしいのだ、ずっと見知っているその形が。

凍えるような向かい風も、花水川に掛かる橋を渡る頃には、気持ちが良いほどに馴染んでいた。

 

長兄宅に着き、玄関先でご無沙汰を詫び、そして、家族皆の元気な様子を伺い知り、安堵する。

 

こうしてまた、新しい一年がいつものように始まった。

『生きてゆく。それだけ…。』

 

f:id:vgeruda:20210103151937j:plain青い大山(花水川河口の橋から):大山もいつもと変わらぬ姿。

 

f:id:vgeruda:20210103152054j:plain小さめのダイサギ?(花水川河口の橋から):少し離れたところに、アオサギが蓑を背負ったような姿でジッと佇んでいる。

伊豆山神社男神立像の爪先のこと…再び懲りない妄想。

 

2020年暮れ…ずいぶんと久しぶりに、妄想の扉が開いた。

その扉は、次のデジタル記事がきっかけで開いた。

 

 

上掲の記事の写真を拡大すると、横たわる雷神像写真の風神・雷神像は、山形県大江町の雷神社から町に寄贈されたものというの爪先が眼に飛び込んできた。

その鈎のように湾曲した異様な3本爪…。

これまで、風神・雷神の造形は琳派の屏風絵などで見知るだけで、その足元や爪先の形に注目することは無かった。

『3本爪…?』

妄想の扉は開いてしまった。

雷神が3本爪として造形されることが、雷神の図像の決まり事の一つであるのならば、伊豆山神社男神立像が履く沓の爪先の造形も、沓としてのデザイン以前に、何かしらの図像としての決まり事を仄めかしたものなのでは…?

無理筋と思いつつも、妄想を進めてしまう。
(大晦日もお正月もそっちの ”褻” 暮らしの私にとって、こんな時ほど妄想世界への逃避行はもってこいなのだ。)

ネット上で、雷神の彫刻像の3本爪について検索すると、どうも、雷神の彫刻像の足爪は2本、あるいは3本として表現されるものが多いようだった。
琳派の屏風図のように、人間の足指と同じような形に描かれる場合もあった。)

また雷神から想起される龍神もまた、3本爪の図像として描かれるものがあると分かった。
(むしろ、伊豆山神社の成り立ちを思えば、雷神というより、龍神との係りへと、妄想が深まってゆく。)

伊豆山神社男神立像は、龍神としての象徴を担うために、あのような形の沓を履いているのではないか?』

こうして、お正月を迎える大晦日の用事を後回しにして、再び性懲りもなく、”伊豆山神社男神立像の爪先の造形は、龍神の化身としての象徴か?≫などと、素人の妄想を蒸し返したのだった。

果たして、伊豆山神社男神立像の「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓」(伊豆山神社木造男神立像考」鷲塚泰光の下には、雷神由来の、あるいは龍神由来の”異様な湾曲した3本爪”が隠れているのだろうか。

 

 

 

 

 

【 過去の enonaiehon の記事から】

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① ”伊豆山神社男神立像”(2012年7月26日 enonaiehon )から

 今春の伊豆山神社参詣から3か月が過ぎた。
 昨日、京都での修復を終えて熱海に里帰りした神像を、ようやく目の当たりにすることができた。美術館展示室の奥まった一部屋に、この一体だけが展示されている。神像の重量感、生々しい存在感に見合う空間だ。
 
 初めて対面して真っ先に感じたのは、時代を越えた強い個性と存在感だ。造形としては11世紀当時に生きた人間そのものを写したかのように見える。異質な他者として自己完結しているようで、とりつくしまがない。それでいて、薄く閉じられた眼は、貴族的な超越感とともに、気まぐれな興味、欲望を隠しているようにも感じられる。
 
 また、歌人相模が走湯権現参詣を果たした時点で、このような神像は無かったはずだ…と感じた。なぜなら、このように圧倒的な存在感を放つ神像を拝してのち、権現僧の返歌百首に対し、歌人相模が、再び切って返すような百首を詠むとは思えないからだ。
 そう感じる一方で、歌人相模の煩悩に対して、この神像が権現僧の形、人間の形を借りて百首を詠んだとしても不思議がない…そのような妄想もよぎる。つまり、走湯百首歌群の世界は、この写実的な神像を眼にした歌人相模が、神像を擬人化することでつくりあげた、虚構の枠組みの中での文学世界だったのではないかと。
 
 4月から待ちに待ったこの日、神像を実際に見ることで何かが見えてくるのではないか、そんな期待があった。しかし、ただ頭の中で歌人相模の道を行きつ戻りつしただけで、”11世紀の伊豆国で、なぜこのような神像が祀られたのか”という疑問は残ったままだ。

(この神像の造形について”…唯一異形と思えるのは、足の爪が3本であること。仮に履物の形としても特異であり、また裸足であるというのも頭巾・朝服の出で立ちとは不釣合いに思える。神としての属性が3つの足爪として示されたのだろうか。

 【補記:その後、『三浦古文化』第30号(1981年)所載「伊豆山神社木造男神立像考」(鷲塚泰光)のなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」とあり、「沓」であることが分かった。”3つの足爪”は素人の妄想となった。】 

 

② ”伊豆山神社男神立像」の履物”(2016年12月19日 enonaiehon )から


 2012年7月、2016年2月と、伊豆山神社の「男神立像」を間近に見ては、歌人相模との係わりについて妄想を巡らしてきた。
 そして、研究者の方々の知見に接することよって、自分の無知と勘違いに気づかされてきた。それでもなお、この「男神立像」に対する興味はいまだ尾を引き続けている。
 その「男神立像」について、現時点で思い巡らしていることを書き留めておこうと思う。何かをきっかけに、その謎の一端がほどける時が来ることを期待しつつ。

 

伊豆山神社男神立像」の履物~

しかし、その後、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も 手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」(鷲塚泰光 「伊豆山神社木造男神立像考」 : 『三浦古文化』 第30号 1981年)という論考によって、自分の無知(大いなる…)を知ることになったのだった。 

 そして、その「沓」と似通う他の作例を知りたいと思ってきた。なぜなら、同じような作例の制作年代が分かれば、伊豆山神社男神立像」について研究者の方が新たに提示された制作年代…「平安時代(10世紀)」…を素直に(?)納得できるように感じたからだった。
 つまり、伊豆山神社男神立像」と同様の履物表現の神仏像の制作年代の多くが10世紀代に集中するのであれば、「男神立像」の年代も10世紀の可能性が高いのかもしれないと。
 そして、ようやく次のような作例を一つだけ、見つけることができた。

 

イメージ 2
鞍馬寺「吉祥天立像」の履物
( 『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕 に
掲載された全身像の足元を切り取り加工したものです。)

 

 ただ、この作例鞍馬寺「吉祥天立像」)については、「像内納入品の年紀から、大治2年(1127)の作」(『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕)とされ、10世紀の作例とはならなかった。
 果たして、履物の表現の違いによって、制作年代をある程度類推できるものなのかどうか…。徒労に終わることを予感しつつ、今後も他の作例を探し、その制作年代を確かめることができればと思う。

補足:
 中国(唐代)の官服について調べるなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現」よりは、かなり複雑で装飾的なデザインの履物例がいくつかあった。
 その一つの輪郭線をトレースしてみた。こうしたデザインを簡素化すると、伊豆山神社男神立像」や鞍馬寺「吉祥天立像」の履物になるだろうか。

 

イメージ 3

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2020年を共有して…(来たる年こそ)もっと心地よい歌を!

 

2020年がこうした一年になるとは…。

2020年のどん詰まりの夜に、想いはヒュンと飛んでゆく。
地球上のみんなが、きっと今頃、同じ想いを少なからず共有しているんだろうな…と。

凶悪な”コロナ共有実感ウイルス”は、”格差と分断ウイルス”の感染力をはるかに凌駕しているように見える。

2020年、”コロナ共有実感ウイルス”は地球規模で”感染””が広がってしまった。
この一年の間に、多くの人々がその共有実感を保有するに至って、今、2020年末を迎えているのだ。

共有実感の皮肉な蔓延とは言えるけれど、みんなで実感を共有することで、受け持つ恐怖はいくばくか軽減されているようにも思う。

いや、それは甘い慰めだろうか?

もしかすると、この共有実感にさえも”格差と分断ウイルス”が重なるようにはびこり、恢復への道のりをややこしいものに捻じ曲げてしまうのだろうか。

2020年に”コロナ共有実感”を保有するに至った私たちが、2021年には、どうか、賢くも正しい道のりを探し当て、お互いを恢復し合うことができますように。

 

f:id:vgeruda:20201231231032j:plain12月30日の海①

 

f:id:vgeruda:20201231231103j:plain12月30日の海②

 

f:id:vgeruda:20201231231359j:plain12月30日の”月の道”(真鶴駅から見る相模湾上の月):家族から貰った写真。