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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言5 「さてそのとし館の焼けにしかば」と「焼け野の野べのつぼすみれ」

 『相模集全釈』から230・329・433の歌を引用させていただく。
 
「 中春
230 若草をこめてしめたる春の野に我よりほかのすみれ摘ますな」     (相模)
 
「 仲春
329 なにか思ふなにをかなげく春の野にきみよりほかにすみれ摘ませじ」 (権現僧)
 
「 …さてそのとし館の焼けにしかば… 」      (422と423の歌の間の詞書から抜粋)
 
「 二月
433 もえまさる焼け野の野べのつぼすみれ摘む人たえずありとこそ聞け」  (相模)
 
 230・433の相模の歌について、『全釈』の通釈を引用させていただく。
 
230 「私をとじこめて自分のものとしている春の野で、すみれを摘むような気持でほかの女性に手を出すことを、夫にさせないようにお願いします。」
 
433 「野焼きをした野原に、ますます盛んに萌え出てくるつぼすみれの花を、ひっきりなしに摘む人がいると、うわさに聞いているのです。」
 
 『全釈』の通釈を読む以前、初めてこれらの歌に接した時、大江公資と相模との関係をギクシャクとさせるような現地女性がいたこと…野に咲く「すみれ」はその象徴として詠まれていることを感じ取り、現代と変わらない相模の生々しい悩みの形、その人柄に関心をもった。
 今、『全釈』の詳しい通釈を支えに、館(たち)の火災の事実を伝える詞書をはさんで、改めてこれらの歌を眺めてみると、『全釈』の通釈とはまた別の私なりの読み取り方も生まれてくる。
 それは相模と大江公資の住まいや国司館についての次のような疑問とも係っている。
 
*赴任地の相模国で、大江公資と相模は同居していたのかどうか。
*11世紀前葉の相模国国司館の機能・性格はどういうものか。
 
 現時点で、私の推測・想像による答えは次のようなものだ。
 
*正妻ではなかった相模は、大江公資とは別住まいであったと推測されることから、都での暮らしと同じように、赴任地でも同居していない可能性があるのでないか。相模の住まいは国司館から一定程度離れた所にあったのではないか。
*当時の国司館の区画内の各施設は、国司が政務・儀式・饗宴などを執り行う公的な空間と、国司が住まう私的な空間とに分けられて配置されていたのではないか。 
 
 相模が大江公資とは別住まいであったと想定する理由の一つとして、彼女が歌に詠んだ「わがやど」の「ませがき」(籬垣)が、公的な国司館の外郭施設とは考えにくいことがある。
 (国司館を警備するには、少なくとも掘立柱塀ほどの囲繞施設が必要だと思われる。)
 また、詞書にある「館のやけにしかば」の一連の表現には当事者意識が感じられず、他人事のよう記述されていることも、別住まいを想定する理由である。
 もし、二人が同居していたとすれば、①火災にあった「館」が大江公資と相模の私的な住まいでもあった可能性(かなり可能性が低いと思われるが)、②火災にあったのは公的な「館」だけで、二人の私的な住まいは別棟で無事であった可能性、のいずれかとなる。
 ただ、②の想定でも、「館」からの延焼によって相模の私物や奉納歌に係る記録などが被害を受ける危険性もあったはずで、そのような場合、自身にふりかかった重大な災難として受け留めた詞書になるのではないだろうか。
 なお、②のように「館」とは別棟の私的な住まいである「わがやど」で同居していた場合、公的な「館」との境を籬垣によって区切った「わがやど」は、彼ら二人とそれぞれの使用人の居住を確保するほどの邸宅ということになり、国司館全体の区画規模はかなり広大なものになりそうである。しかし、これまでの発掘調査成果から、相模国府域内に11世紀代の相当施設が存在するような大規模な区画域を探すことは難しいように思われる。 
 
 以上の疑問や推測・想像をもとに(門外漢の恣意的な読み取り方かもしれないが)、相模と大江公資は別住まいであったとの仮定で、相模の230・433の歌を読み取ってみた。
 
230 若草を囲い込んだ春の野で(若い人を囲っている国司館のあたりで)、私とは別の菫の花を摘んだりさせないでほしいのです。
 
433 (国司館の建物が焼けましたが、その)燃え勝る焼け野の野辺に咲く坪菫を、今もまだ摘み続ける人がいると聞いているのですよ。