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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言7 「権現の御かへり」(1)

 相模の走湯権現奉納百首に対する返歌は誰が詠んだのか。
 私はわずかな知識をもとにではあるが、①走湯権現の関係者、②相模と交友関係にあった人、の二通りを想定していた。どちらも、相模とそれなりに歌をやり取りできる力を持っている人であることは明らかだ。
 ①当時の走湯権現に、都の文化を吸収した人物がいたのではないか。もしくは、②相模や大江公資の知人が東国を旅する途中、相模国伊豆国近辺に逗留していたのではないか。そんなことを想像していた。
 一方で、権現僧の返歌は相模自身が代詠したものではないか、あるいは大江公資が代詠したものではないか、との想定もあり得るだろう。だが、私はやはり、相模の詞書が全くの創作とは感じられなかった。
 そして現在、②については、次のように想像をめぐらしている。
 つまり、
*相模と大江公資の私生活について、ある程度知りうる立場の人であった
*また、「権現の御かへり」が、相模が設定した文学的虚構であったとしたら、その虚構を大江公資も消極的ながらも認知していたのではないか
 と考えてみたのだ。
 すなわち、「相模が走湯権現に百首を奉納する」→「”権現の返歌があった”という虚構を設定し、相模・大江公資の知人に代詠を依頼する(大江公資はそれを黙認した)」→「国司館の火災をきっかけに、大江公資は相模の創作への過剰な傾倒に苛立ちを露わにする」というような経緯になるだろうか。
 この場合、権現僧(二人の知人)の返歌に対する相模の再びの返歌には、気後れ・ためらいがほとんど感じられないこと、しかも、相模がこれらの走湯権現奉納百首群を含めて相模集をまとめ上げた時期が晩年であったこと(代詠者に迷惑が及ばなくなった頃?)などを考えると、相模・大江公資たちより年下か同世代の人であったのでは、と想像している。
 一方、①の可能性も残るが、それはかなりの幸運が重なってのことなのかもしれない。すなわち、11世紀前葉の伊豆山神社に、
 *都の貴族文化を身につけ、和歌を嗜む人(1063年に伊豆配流となったとされる藤原静範のような事例)
 *相模国司の”つま”の奉納百首に返歌できる立場にある人
がいたということは、かなり運命的なことのようにも思える。
 いまだ、走湯権現奉納百首への返歌の作者の真実は明らかになっていないが、後世の私たちが『相模集』の世界をさまよう時、権現僧の返歌があったことで、相模の歌の背景がより重層的・立体的に見えてくることは確かだと思う。