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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言10 「権現の御かへり」(4)大江公資

 一年半前の私は、相模の走湯百首に対する返歌を詠んだのは大江公資ではないかと、漠然と感じていた。 
 相模…都の歌人であり、相模国司の「つま」である女性…に対し、権現僧の立場で社頭に埋納された百首を掘り返し、「権現の御かへり」として返歌を詠むという行為が、大変不自然なことのように感じたからだ。当時においても、そのような行為は僭越を越えて冒涜的なものではないかと。
(また、もし、それほどのことを行い得る人物が当時の走湯権現に存在していたとするならば、その人物は、あの特異な「伊豆山神社男神立像」の造像にも係るような立場の人ではないだろうか、とも感じていた。)  
 その一方で、大江公資…在任中に早河牧などの資産も築いた受領国司…が、相模の奉納百首に対して、わずか23か月の間に百首を読みこなせただろうか、しかも相模に再び返歌を促すほどの力量の歌を、と疑問に感じた。
 また、その頃の大江公資は相模国司としての任期終了を翌年に控え、後任国司と無事に交替するためにも、より多忙な一年ではなかったかと想像される。そのような時期に、すでに隔たりが生じていた相模との間で、百首の歌のやり取りをする気持の余裕と時間があったのだろうかと。その疑問は今も変わらない。
 そして、勅撰集に採られる歌人でもあった大江公資の歌作りとはどのようなものなのだろうかという疑問もある。大江公資の歌に「権現の御かへり」に通ずるような何かしらの調べが感じられるだろうかと、手元の本から彼の歌を集めてみた。
(『後拾遺和歌集』・『金葉和歌集』・『詞花和歌集』・『千載和歌集』は、『新古典文学大系』〔8・9・10 岩波書店〕から引用。)
『後拾遺和歌集』より
    相模守にてのぼり侍りけるに、老曾(おいそ)の森のもとにて ほとゝぎすを聞きてよめる      
   195 東路の おもひでにせん ほとゝぎす 老曾の森の 夜半の一こゑ
    鈴虫の声を聞きてよめる                               
   267 とやがへり 我が手ならしし 鷂(はしたか)の来ると聞こゆる 鈴虫〔の〕
    霰をよめる                                        
   399 杉の板を まばらに葺ける 閨の上に おどろくばかり 霰降るらし
金葉和歌集』より
    三日月の心をよめる                                   
   174 山の端に あかず入りぬる 夕月夜 いつ有明に ならんとすらん
    女のがりつかはしける                                 
   351 しの薄 上葉にすがく蜘蛛(ささがに)の いかさまにせば 人なびきなん
千載和歌集』より
    除目のころ、司給はらで嘆きける時、範永がもとにつかはしける        
   1063 年ごとに 涙の川にうかべども 身は投げられぬ ものにぞありける 
『相模集』より(『相模集全釈』で、大江公資と相模との間の贈答歌と考察されている歌群から引用) 
   49 有明の 心地こそすれ よひよひ に待つに久しき 山のはの月
   51 身をつめば あはれとぞみし 夏の夜の 有明の月の 入りもはてぬを 
   53 栗栖野の 氷室のこほり いつまでか むすぼほれつつ とけじとすらむ       
   55 逢ふことを たのめぬだに ひさかたの 月をながめぬ よひはなかりき
   57 逢ふことを おぼつかなくて すぐすかな 草葉の露の おきかはるまで
   59 かへさずば かさましものを たなばたに 逢ひても逢はぬ のちの心を
 これらの歌のなかで、『後拾遺集』267、『金葉集』351、『千載集』1063、『相模集』53の歌には、大江公資の人となりが出ているように感じた。それは、男としての”相手を手なづけたい”という気持ちの強さであり、官人としての上昇意識の強さであり、それは同時に、彼の弱さでもあるように感じたのだ。そして、その弱さは、おそらく人間的な優しさに通じるところがあったのではないかと。
 これらの実直な歌…抒情性、芸術性が際立ってはいない歌…を眺める限り、大江公資が”権現の御かへり”を詠んだ可能性を否定する材料は出てこない。むしろ、大江公資の歌作りと通底するところが感じられるからこそ、権現僧=大江公資の説があり得るのだろうと思う。「権現の御かへり」を詠んだのは…能因、そして大江公資…今はただ、それらの可能性を想像することが楽しい。