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私の第三十四夜をつづります。

石清水八幡宮(3)

 石清水八幡宮参詣で、新たに興味をひかれた風物がいくつかあった。再訪する機会があれば、また今回とは別の眼で見ることができるかもしれない。それらを振り返って、旅の記憶にしたい。

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安居橋から見る男山  
15世紀末、道興という京都の僧侶が、『廻国雑記』に「 八幡といへる里に神社侍り 法施のついでに  あづさ弓 八幡をここにぬかづきぬ 春はみなみの山に待ち見む 」 と記した歌は、平塚の八幡の神社を詠んだものか、とされている。
この歌の八幡の神社について、つい、現在位置の平塚八幡宮のイメージを思い浮かべてしまう。砂丘の高みに建つ八幡宮の現在位置(かつての八幡村、八幡新宿、平塚新宿などの呼称を経て、現在は浅間町)が、都の裏鬼門を守るという石清水八幡宮のように、相模国府中枢域の南西方向にあたることも、面白い偶然だ。
しかし、私は、『吾妻鏡』に「五大堂〔八幡。号大會御堂〕」とあるのと同じように、相模国府時代には、平塚の八幡宮国府域内の”八幡”(本八幡)の地に坐していたと想定している。
15世紀末の道興がぬかづいた平塚の八幡宮は、”八幡”(本八幡)にあったのだろうか。
それとも現在の浅間町の位置(この地が、かつての八幡村の新宿に相当するとして)にあったのだろうか。
(歌の詞書に”八幡といへる里”とあることが、私には”八幡”の中枢域である”本八幡”を示唆しているようにも思えるのだが・・・)。
こうした平塚の八幡宮の位置については、12世紀中葉の「旧国府別宮」の実態などとも係ってくる問題であるように思う。

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放生池  
かつて極楽寺は池に面していたのだろうか。失われたものの存在感になぜ心惹かれるのだろう。

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高良(こうら)神社  
仁和寺の老僧が参詣した「極楽寺、高良」とは、当時、どのような姿だったのか。また失われたものに思いが飛ぶ。

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七曲がり  
大山や最乗寺の参詣路に比べ、なだらかな阪路。仁和寺の老僧は惜しいことをしたと思う。

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「旧跡 かげきよ」脇の水鉢 
水に映る林を覗き込もうとして、ふと、子どもの頃に見た『怪談』というオムニバス映画のなかの「茶碗の中」を思い出した。暗い林。人影もない。青い空だけを確かめて写真に残すことにした。(『怪談』は本当に面白い映画だった。最も強く印象に残ったのは「耳無し芳一」の壇ノ浦の合戦の場面。海と一体化したような板敷の大広間…だったと記憶している…に座る芳一の鼓動が聞こえてきそうだ。詩的な映像だったと思う。今、見直すとどのように感じるのだろう。)

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「豊蔵坊跡」 
”男山四十八坊”と言われた頃の名残りの標石。かつて石垣のなかに林立していた僧坊の姿を想像する。明治時代の”文化大革命”の跡のようにも感じられる。

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「モデル竹林」の標示板と八幡市
男山の竹の品質は高いのだろうか。展望台でおしゃもじを買って帰った。使う時に、旅のことを思い出すのが楽しい。

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「右 なら かうやみち」と読める(ような?)道標
いつか、”高野道”を歩いて奈良に向かう旅ができるだろうか。(補記:”東高野街道”を調べてみると、大阪に向かうことが分かった。右に向えば高野道、奈良道…ということだろうか。)

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「信長塀」
版築をさらに強化するアイデア。塼(せん)と土の平行線の連なり、風化の色合いが、木版画のように美しく感じられた。

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石清水井と石清水社
男山の東の坂道に建つ。八幡宮造立以前の石清水の寺…はこのあたりにあったのだろうか。

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「瀧本坊跡」
あたりに瀧の姿は見かけることができなかった。「跡」という空間には、どうしても今の時間とは別の時間が漂っているように感じられてしまう。

以上、石清水八幡宮をふりかえりながら、やみくもに撮った写真の中から、11枚を一度に記録することができた。旅の一日目の半分…。まだ始まったばかりだ。