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私の第三十四夜をつづります。

鳥羽離宮跡(1)12世紀前葉の相模国司と鳥羽

 『大磯町史』の「第7章 相模の国司」の頁をコピーしたのは15年以上前のこと。書き込みと手擦れでボロボロになったコピーをまた眺める。9世紀代の相模国司に嵯峨源氏が続くことに気づいたのも、このコピーからだった。
 平塚市内から大量に出土する緑釉陶器の背景を知りたい…その思いから、この9世紀代の嵯峨源氏国司たちが手掛かりになるように感じたのだ。まず興味を持ったのが、大住郡・高座郡大領壬生直広主・黒成たちと同時代の相模国司 源 融(とおる)だった。融に所縁のある地を確かめたいと、京都を旅したのが2004年3月…それから11年もの月日が過ぎた。今回の京都の旅は11世紀~12世紀の相模国相模国司と係る地を訪ねた。1997年に考古学に改めて関心を持つようになった時には、まったく遠い世界だった時代にまで旅するとは。意外でもあり、不思議なことのようにも思う。
 平安時代相模国司の補任表を眺め、特徴的な流れを雑駁にまとめると、次のようになる。
(歴史の知識が無いので、まず著名な人物が目に入るのだろうか。それでもやはり、他の東国諸国の国司と比べ、相模国司には素人目にも特徴的な流れがあるように感じられるのだけれど。)
*9世紀:嵯峨源氏仁明源氏の連続的補任
*11世紀:河内源氏三代(源 頼信、源 頼義、源 義家)の補任
*12世紀:院近臣・北面武士などの補任(例:藤原盛重源重時、藤原親弘など)、同じ人物の再任(例:藤原経国、藤原頼定?など)
 今回、鳥羽を訪ねるにあたって、11~12世紀の国司摂関家や院につながる人物が多いことは相模国司に限らないとして、12世紀中葉の相模国府移遷の背景に、鳥羽院と密接に係る相模国司が大きく関与していたのでは?という素朴な思いがあった。
 安楽寿院についても、『平塚市史  11下 別編 考古(2)』(第2章 中・近世) の冒頭に「…ちなみに糟屋庄は平治元年(1159)に、鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院領となり上皇の皇女八条院瞕子内親王家が管理することとなった。…」とあり、当時の大住郡域の情勢と深く係る地であると感じたからだ。

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鳥羽離宮跡位置図(安楽寿院境内の説明版から)
今回、竹田駅から”東殿”の安楽寿院、北向山不動院を経て、”馬場殿”の城南宮を訪れただけに終わった。

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「鳥羽離宮跡の遺跡」図(安楽寿院境内の説明版から)