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私の第三十四夜をつづります。

稲荷前A遺跡の調査

 26日、友人の電話で、四之宮の泉蔵院近くで調査が始まっていることを知った。地図で地点を確かめると、家からは2~3㎞ほどの距離になる。幸いに涼しい日だった。図書館に行くついでに足を伸ばして現場をめざした。
 2010年春から、相模国府の勉強からしばらく遠ざかっていた。それでも稲荷前A遺跡の調査と聞けば期待が高まる。しかも、地図上で確かめた調査地点は、国府域南半部を構成する第4砂丘列の中でも、大住郡関連の中枢施設が展開しているのではないかと、素人の私が想定(妄想)していた地域だったからだ。
 ただ、その第4砂丘列東端にあたる今回の調査地点は、標高10m台の高まりからはやや東に外れている。その砂丘頂部から東は、9m、8m、7mと標高が漸減し、その先端は相模川に削られた崖面となる。そして、その崖下から相模川までは、標高4~6mの旧河道・後背湿地が広がっている。今回の調査地点は、その第4砂丘列東端が崖となる手前の、標高約9m台の東斜面上にあたっていた。
 素人の私の妄想は別にして、この地域の調査への期待が高まるのは、そもそも、この調査地点の約100m北には稲荷前A遺跡第1地点(「国厨」・「大住厨」・「大厨」墨書土器出土)、129号線を挟んだ北東約75mには第2地点(「国厨」・「大住」墨書土器出土)、同じく約125mには第3地点(「旧豉一」墨書土器出土)が位置しているためだ。
 一方で、調査地点の西約125mの稲荷前B遺跡第4地点は、第3砂丘列寄りの稲荷前A遺跡第1~3地点とはまた異なる様相を示している。稲荷前A遺跡第1~3地点が8世紀前半~9世紀後半での活動を示すのに対し、稲荷前B遺跡第4地点の遺構は7c末8c初の竪穴建物・溝、9世紀~10世紀の竪穴建物・土壙墓が検出され、なぜか8世紀代の展開が見られない。
 果たして第4砂丘列の東端で新たにどのような調査成果が得られるのか。素人は、専門家による調査・研究の結果を楽しみに待つしかない。

稲荷前A遺跡の発掘調査現場(北から)…夏場の砂丘の調査は特に難しいと聞く。今にも崩れて形を失ってしまいそうな調査面。素人目には、平塚海岸の砂丘を調査しているのと同じように困難そうに見えた(調査されている方々には無断で撮影し、掲載させていただいています)。
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