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私の第三十四夜をつづります。

河川沿いの特殊遺物出土

4日、かながわ考古学財団による発掘調査成果発表会に参加した。精選された遺物も間近に眼にすることができた。ただ、自分の意欲とは裏腹の体調のために、いただいた資料を持ち帰るだけに終わってしまったような気がする。
 今日、発表会で記憶に残った情報を、自分の関心(ごく狭い関心)に引き寄せて見直してみた。
 4日の発表会では、特殊な遺物である緑釉陶器、皇朝十二銭、銙帯などの出土情報が印象に残っていた。さっそく、厚木・伊勢原・秦野・平塚地域を見渡す地図を引っ張り出す。そこには、そうした特殊遺物の出土地点(これまで自分が見知った限りでの僅かな情報)が記入してある。その地図に、新たに4日の出土情報(前回調査の情報も含めて)を記入する。
【新たな出土情報】
厚木市 戸田小柳遺跡(P2東F4号溝状遺構)で緑釉陶器皿の底部片が出土している。 ◇相模川渡河想定地点の南
伊勢原市 上粕屋・和田内遺跡(1区遺構外)で、緑釉陶器埦の体部片、猿投産の灰釉陶器手付瓶、平瓦片が出土している。 ◇渋田川右岸
伊勢原市 上粕屋一ノ郷上遺跡の前回調査(8号住居跡)で、「長年大宝」(848年)…ちなみに平塚市域では未発見(平成14年集成時点)の皇朝銭…が出土し、同調査(9号住居跡)で、銅銙鉈尾が出土していた。 ◇渋田川右岸~鈴川扇状地(?)
秦野市 寺山中丸遺跡(5区遺構外)で、瓦塔片が出土している。 ◇金目川左岸
 
【これまでに地図に記入した出土情報】
相模川沿いに北から
厚木市 峯ヶ谷戸遺跡・金田北海道遺跡〔緑釉陶器〕
相模川に合流する中津川の右岸では
厚木市 鳶尾遺跡〔緑釉陶器、「富寿神宝」(818)〕・妻田中村遺跡〔緑釉陶器〕
◇玉川・恩曾川と相模川との合流地点南部…相模川渡河地点の一つと想定している地域…の近接地では
  *厚木市 恩名遺跡〔緑釉陶器〕・愛甲宿遺跡〔緑釉陶器〕
伊勢原市 愛甲宮前遺跡〔「長年大宝」(848年)、緑釉陶器〕
伊勢原市 石田峯遺跡・石田源太夫遺跡〔緑釉陶器〕
日向薬師付近から平塚市相模国府域へと流れる渋田川の左岸では、北から
伊勢原市 西富岡・向畑遺跡(№160遺跡)〔銅製銙帯金具の巡方・丸鞆、金銅製飾り金具〕
伊勢原市 下糟谷成瀬第Ⅱ地区遺跡群〔「承和昌寶」(835)
◇大山南西麓から平塚市相模国府域へ流れる金目川の左岸では
秦野市 寺山中丸遺跡〔緑釉陶器〕 などが点在している。
 
 今回追加した出土情報を含めて、改めて地図を眺めてみる。
文字通りの我田引水の見方ではあるけれど、厚木市伊勢原市秦野市で特殊遺物を出土した地点は、すべて平塚市相模国府域へと流れ込む河川の流域に位置しているように見える。
そして、愛甲郡・大住郡・余綾郡に点在するこれらの平安時代の遺跡が、緑釉陶器や9世紀代の皇朝十二銭などの出土を通じて、その時期そのものに展開した開発拠点を示しているようにも思えてくるのだ。
(一方で、そもそも河川流域は開発地域であったろうし、モノ・ヒトの流通に深く係ったであろうし、それらの河川は相模湾に注いでおり、その相模湾岸・相模川河口部に相模国府が立地しただけのこと、とも思う。ただ、相模国において、9世紀に展開した開発拠点に、相模国府経由で緑釉陶器が流入していったことは、いつか考古学的に実証されるはずと、繰り返し思わずにいられない。)

イメージ 1
縄文時代中期初頭の深鉢(上粕屋 雷遺跡-遺構外)…古代の特殊遺物ではないけれど、把手のデザインが個性的に思えた(雷遺跡から数百m南の石倉中遺跡第2地点で、同じ中期初頭の竪穴住居跡・深鉢〔炉体土器〕が出ているようだ)。