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私の第三十四夜をつづります。

“三宮相模君”②


 201411月、『雲居寺結縁経後宴歌合』の歌を初めて眼にした時、“結縁経”という言葉さえ知らなかった。まずは“三宮相模君”が相模の名をもつことに一番の興味を感じた。そして結縁経を巡って集った歌人たちは、いったいどのような人々なのか、知りたくなった。
図書館で辞典を開き、解説文をたどりながら、歌人たちのそれぞれの系譜やつながりを追った。その僅かな情報と、乏しい理解力で、当時の“三宮”を取り巻いていた時代について想像をめぐらした。
その後も、12世紀初頭の結縁経後宴歌合の場に、三宮相模君がどのような立場で臨んだのか、そもそも三宮相模君とはどのような人なのか、1112世紀の相模国とどのように係っていたのか、もう少し探ってみたいと思っていた。
そこで再び、相模国司のなかに三宮相模君が係りそうな人物を探してみることにした。相模国司との係り方としてまず思い浮かぶ想定は、三宮相模君の夫、あるいは父が相模国司だったのでは?というものだ。

三宮相模君は2030代で三宮に出仕し、その前後に、夫が相模守であったか、あるいは相模守となった。
②三宮相模君は2030代で三宮に出仕し、その前後に、父が相模守であったか、あるいは相模守となった。 


そして、三宮相模君の誕生・結婚・出仕時期について、次のように考えてみた。
まず、歌合(11168月)当時の三宮相模君の年齢と誕生時期について、およそ二通り(を想定。
*1116年当時の年齢が4060代であったと仮定すると、
 5060代であれば、およそ10501065年頃に誕生
 40代であれば、1070年前後に誕生
【註:当初、40~60代として一括りで考えたが、40代と50~60代に分けることにした。】

次に、三宮への出仕時期について。(結婚時期は出仕時期の前後と想定)
*20代~30代で出仕した場合
 およそ上限1070年代~下限1090年代の範囲内で出仕
【註:1080年頃誕生の場合、1100~1110年頃出仕の可能性もあるが、今回は除外した。】

また、①夫か②父としての可能性のある相模守について、おもに生没年や補任時期から次のように推定してみた。
*①・②ともに、およそ1070年代~1090年代補任の相模守

以上の根拠の乏しい推定(想像)をもとに、三宮相模君について、次のような表をまとめてみた。
【註:素人の見当違いを恐れずに、現時点での覚書としてまとめたものです。ことに、夫・父の可能性については、何の根拠も示すことができません。】

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