2014年11月、『雲居寺結縁経後宴歌合』の歌を初めて眼にした時、“結縁経”という言葉さえ知らなかった。まずは“三宮相模君”が相模の名をもつことに一番の興味を感じた。そして結縁経を巡って集った歌人たちは、いったいどのような人々なのか、知りたくなった。
図書館で辞典を開き、解説文をたどりながら、歌人たちのそれぞれの系譜やつながりを追った。その僅かな情報と、乏しい理解力で、当時の“三宮”を取り巻いていた時代について想像をめぐらした。
その後も、12世紀初頭の結縁経後宴歌合の場に、三宮相模君がどのような立場で臨んだのか、そもそも三宮相模君とはどのような人なのか、11~12世紀の相模国とどのように係っていたのか、もう少し探ってみたいと思っていた。
①三宮相模君は20~30代で三宮に出仕し、その前後に、夫が相模守であったか、あるいは相模守となった。
②三宮相模君は20~30代で三宮に出仕し、その前後に、父が相模守であったか、あるいは相模守となった。
そして、三宮相模君の誕生・結婚・出仕時期について、次のように考えてみた。
まず、歌合(1116年8月)当時の三宮相模君の年齢と誕生時期について、およそ二通り(a・b)を想定。
*1116年当時の年齢が40~60代であったと仮定すると、
a:50~60代であれば、およそ1050~1065年頃に誕生
b:40代であれば、1070年前後に誕生
【註:当初、40~60代として一括りで考えたが、40代と50~60代に分けることにした。】
次に、三宮への出仕時期について。(結婚時期は出仕時期の前後と想定)
*20代~30代で出仕した場合
およそ上限1070年代~下限1090年代の範囲内で出仕
【註:1080年頃誕生の場合、1100~1110年頃出仕の可能性もあるが、今回は除外した。】
また、①夫か②父としての可能性のある相模守について、おもに生没年や補任時期から次のように推定してみた。
*①・②ともに、およそ1070年代~1090年代補任の相模守
以上の根拠の乏しい推定(想像)をもとに、三宮相模君について、次のような表をまとめてみた。
【註:素人の見当違いを恐れずに、現時点での覚書としてまとめたものです。ことに、夫・父の可能性については、何の根拠も示すことができません。】