enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2016.2.16

 【12日-②】
 堅田の水辺のごく一部を歩くうちに昼を過ぎてしまう。早朝、平塚の星空を見上げながら京都へと向かってから、もう何日も経ったような気持ちになっていた。薄青い湖面と山影を眺める。おそらく古代からそれほど大きくは変わっていない湖面の姿。その景観のなかに身をおくだけで旅心が満たされた。
 堅田駅に戻る途中、お茶屋さんで温かい抹茶ミルクをカップに淹れてもらう。歩きながら頭痛薬を流し込む。旅の数時間が何とかすべりだしていると思う。ほっとした。
 
 電車で大津京駅に向かう。大津京駅から大通りを南にゆるやかに下りながら、新羅善神堂への入り口を探す。表示が見つからない。道沿いの市役所で案内を乞うた。やや行き過ぎていたことが分かった。庁舎の中を再び北に戻りながら、秘密(?)の近道を通ってお堂を目指した。
 新羅善神堂は静まった空間のなかにあった。程よく荒れたたたずまい。私的な結界を示威するかのような威厳。新羅善神堂はあくまでも私的で閉鎖的な威厳を保って、現代の他者を拒絶しているように見えた。
 
 お堂の横手からさらに坂道を上り、法明院へ向かう。地図上では新羅善神堂のほぼ真西、長等山の北東山腹の標高約145mほどの地点にあった。山の中にあって動くものは谷水のみ。行き着いた寺域に入ると、時間が止まっているような印象を受けた。本堂横には導くように開けられた門があった。その木箱に百円を投じ、廃れてゆくにまかせているような庭園をさまよった。
 突然、予想もしなかった池が眼の前に広がった。緑を映す幻想的な水の塊りが、山腹の段切り面(?)に湛えられていることに驚く。法灯が消えたような法明院のなかで唯一、この苑池のみが山中から湧出する水の生命力によって、生きながらえているようだった。書院や茶室や橋はすでに何も語らなくなっているのに。

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新羅善神堂…善神とはどのような存在なのだろうか。あの特異な姿を顕現させた新羅明神座像が目に浮かぶ。善神とは新羅の神なのだろうか。

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法明院の庭園に生き続ける池水

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朽ちる橋

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まだ色鮮やかな落花(法明院から新羅三郎義光の墓へと向かう山道で)…朽ちてゆきながらも、まだ何かを語りかけている。花の命が残っているからなのだろう。