~『流布本相模集』より~
むかし かたらひし人、遠き国よりのぼりて おとづれざりしかば、
妻(め)かただにあり。
135 神かけて たのめしかども 東路の ことのままには あらずぞありける
(『相模集全釈』)
~『異本相模集』より~
近く住む人の、おとせざりけるに。近江のうみ思ひいでらるると
3 涙こそ あふみのうみと なりにけれ みるめなしてふ うらみせしまに
(『相模集全釈』)
~『流布本相模集』より~
軒の玉水かず知らぬまで つれづれなるに、「いみじきわざかな、石田(いしだ)のかたにも すべきわざのあるに」と おのが心々に、しづのを言ふかひなき声にあつかふも耳とまりて、
78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな
(『相模集全釈』)
「堅田」については、初めは単に大江公資の新しい“妻”が暮らしていた土地ということで興味を持った。その後、大江公資は老境に近い時期、なぜ近江国(の堅田)にこもったのだろう、と不思議に感じた。相模国司や遠江国司として長い地方暮らしを経て都に戻った大江公資。彼にとって、もはや歌人相模のもとでは心休まる時間が期待できなかったからだろうか。としても、なぜ近江国の「堅田」という土地でなければならなかったのだろう。都にはない安らぎを堅田という土地に求めた結果、新しい妻も「堅田」の人、ということになったのだろうか。
いや、おそらく受領としての野心も人並み以上のものがあったように想像する大江公資。その彼がわざわざ京都を離れ近江国に向かったのには、何か実質的な必要があったからではないのだろうか。隠遁者や‟数奇者”としての暮らしに憧れただけで、近江国にこもったとは思えない…そんなふうに感じていた(いくら考えても分からないようなことをあれこれと思い巡らすことの意味は? 自分でも良く分からないのだが)。
また「石田」については、その比定地に疑問があった。『相模集』78の歌において「石田(いしだ)のかた」、「石田(いしだ)のわせ」とある。しかし、その「石田(いしだ)」の比定地として、古代から和歌に詠まれた「石田(いわた)」があてられていることに疑問を感じた。
もちろん土地の呼び方は時代を経て変わらないものもあり、変遷してゆくものもあると思う。古代に「いわた」と呼ばれた土地が、その後「いしだ」と呼ばれるようになった例もあることと思う。だからこそ、歌枕の「石田(いわた)」の比定地として、京都市伏見区石田(いしだ)があてられているのだろうと思う。
ただ、歌人相模が生きた11世紀の時代、歌枕として知られた「いわた(石田)」が、日常の会話のなかで「いしだ」と呼ばれ、しかも歌人相模自身も、その78の歌のなかで「いしだ」として詠み込むことがあったのだろうかと、いぶかしく感じたのだ。
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…(前略)…『平安遺文』四巻一三三八「大江公仲処分状案」には、公資の子孫である公仲伝領の荘園の一つに、石田荘(山城国)があって「件所先祖伝所領也」と記されている。これを公資以来の伝領の土地と考えるならば、「石田のかた」と符合するものであろう。山城国の石田は、現在の京都市伏見区石田(いしだ)であろうか。この辺りは、古い歌枕の「石田(いわた)の小野」と言われているところである。…(後略)…
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『相模集全釈』の解説に示されているように、大江公仲の伝領の荘園が所在したのは現在の京都市伏見区石田の近辺地域であったとしても、それがそのまま『相模集』78の歌の「石田(いしだ)」と同じ場所なのだろうか、と疑問に感じてきた。
歌人相模と同時代人である能因の歌枕においても、山城国のなかに「いはたの森」が挙げられているように、「いはた」(いわた)の呼称は、万葉集の時代から変わらずに、歌人相模の時代においてもそのまま使われ続けていて、「いしだ」という呼称に変わってはいなかった可能性があるのではないか、と思ったのだ。また、「公資以来の伝領の土地」の「石田荘」の読み方が「いしだ・しょう」なのか「いわた・しょう」なのか、解説のなかでは分からなかった。
(註:その後、『和名類聚抄郷名考證』〔池邊 彌 1970年 吉川弘文館〕では、山城国宇治郡の「石田(イハタ)荘」としたうえで、「今も郡中に石田村存せり、長和頃既に荘号ありて、醍醐三寶院領なり」とされていることが分かった。ちなみに、「長和」年間は1012~16年であり、ちょうど大江公資と歌人相模との”結婚”時期にもあたる年代頃には、山城国に醍醐寺三宝院領石田荘があったことになりそうだ。)
こうした「はてな?」があったために、これまでずっと、現在の京都市伏見区石田(いしだ)とは全く別の場所に、当時「いしだ」と呼ばれていた「石田(いしだ)」の地があるのかもしれない…などと思い続けてきた。もし、そうした「石田(いしだ)」があったとすれば、『相模集』78の歌の位置づけも意味合いも、少し変わってくるはずだと。
芭蕉の歌碑の解説板
大江公資が「あふみぢ」で山上の澄んだ月を詠んでから数百年後、芭蕉が堅田の浦を訪れ、十六夜の月を詠んでいたことを知った。大江公資が見た月も、浮御堂の対岸に連なる山々からのぼった月だったのだろうと思った。その頃、彼は「かただ」の妻のもとで、煩わしい世の中を、月よりも遠い世界のように感じていたのではないだろうか。
~『玄々集』より~
公資 一首遠江守
ことありて、あふみぢにこもり侍りける比
119 ことしげき 世の中よりは あしひきの 山の上こそ 月はすみけれ
(『新編国歌大観』)