11世紀の大津市に「石田殿」が存在した可能性(本中真氏の論考による)をもとに、2016年2月、実際に大津市の法明院から園城寺方面へと、長等山中腹の道を歩いてみた。もちろん、その「石田殿」比定地と、「石田(いしだ)」(『相模集』78)の地を、そのまま重ね合わせることはできない。仮に、11世紀の大津市に「石田(いしだ)」という地があったとしても、『相模集』78の歌との関連は何ら証明できないのだから。
ただ、大江公資の経済活動と係る「石田(いしだ)」が所在するとすれば、その範囲は限定されると思っていた。
一方、『相模集全釈』の詳細な年表や解説をもとに、私は帰京後の大江公資が、私邸のある五条東洞院から山科~大津~阪本~堅田へと行き来する姿を思い描いていた。そして、「石田(いしだ)」はそのルート上にあるのでは?という妄想がふくらんでいった(おそらく残念ながら、歌人相模の屋敷はそのルートからは外れていたのだとも思った)。
【註:内閣府『防災情報のページ』:「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月-1662 寛文近江・若狭地震-」を読み、慶長検地帳(1602年)・延宝検地帳(1679年)に本堅田村の字名として「石田」が存在するらしいことを知った。ただ、その字名が「いしだ」・「いわた」のいずれなのかは不明。また、どの時代まで遡る地名なのかも不明。】
【追記(2022年9月14日):『相模集』の「石田(いしだ)」の所在について2022年現在も迷走を続けている。『相模集』の「石田(いしだ)」は大江公仲の伝領の荘園の「石田」(山城国)とは別個にあるとの想定のもと、近江国のほかに、山城国のなかでその所在を探し求めている。あくまでも、 「石田」の地名は”いしだ”と呼ばれている、という指標をもとに探したいのだ。】
【追記(2022年9月14日):『相模集』の「石田(いしだ)」の所在について2022年現在も迷走を続けている。『相模集』の「石田(いしだ)」は大江公仲の伝領の荘園の「石田」(山城国)とは別個にあるとの想定のもと、近江国のほかに、山城国のなかでその所在を探し求めている。あくまでも、 「石田」の地名は”いしだ”と呼ばれている、という指標をもとに探したいのだ。】
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~覚書:帰京後の大江公資と歌人相模~
【註:●は『相模集全釈』の解説・年表などをもとにまとめた覚書です。○の時期・事項? は根拠をもたない私的な覚書です。】
●万寿2年(1025)、相模国から帰京
【註:『相模集全釈』では、公資が近江の妻のもとに通い始めた時期を万寿2年(1025)とし、万寿3年(1026)頃に「公資女(永縁母)生か」とされている。】
○近江国に公資の経営拠点の一つがあり、その地が「石田(いしだ)」であったか?
○万寿年間(1024~27)、相模が「石田(いしだ)」(『相模集』78)の歌を詠む?
軒の玉水かず知らぬまで つれづれなるに、「いみじきわざかな、石田(いしだ)のかたにも すべきわざのあるに」と おのが心々に、しづのを言ふかひなき声にあつかふも耳とまりて、
78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな
(『相模集全釈』の『流布本相模集』から)
【註:『相模集全釈』では、78の歌の時期を帰京(1025年)以前と想定されていて、「公資との結婚生活も平穏であったはずのこの時期に、何故か相模は欝々とした日々を送っていたことになる」とされている。なお『相模集全釈』では、公資が相模のもとを去った時期を万寿3年(1026)頃とされている。また、武田早苗氏は『相模』(2011年 笠間書院)において、78の歌の“長雨”を「長元元年(1028)の八、九月頃」とし、「相模が夫公資と離縁に至ったと想定される時期とも重なる」とされている。】
【補記①:もし78の歌の時期が帰京(1025年)以前である場合、相模国滞在時期の歌の可能性も残っている。その場合、国府所在郡(大住郡)内の「石田(いしだ)」(現在は伊勢原市内)の地が想定できる。ただ歌集の配列(前後関係、内容の流れ)からは、78の「石田」を伊勢原市石田と想定するのは不自然かもしれない。】
【補記②:その後、『古代後期和歌文学の研究』(近藤みゆき 2005年 風間書房)という研究書を借りて読んだなかで、近藤みゆき氏が77・78(『相模集』)の歌の年代を長元元年(1028)八月下旬と推定され、「長元元年夏から秋頃に公資の夜離れが重なり(77・78)、その晩秋か、あるいは長元二・三年の晩秋に決定的な別居に至ったという成り行きが辿られる事になろう。」と分析されていることが分かった。『相模集全釈』(武内はる恵・林マリヤ・吉田ミスズ 1991 風間書房)を経て、その後の『相模集』研究はより詳細なものになっているようだ。】
○万寿年間、公資と相模はお互いに一層大きくすれ違っていく
○万寿年間から長元年間へと、“堅田の妻”の存在が大きくなり、相模にとって公資は「近く住む人」から「むかしかたらひし人」へと変わってゆく
近く住む人の、おとせざりけるに。近江のうみ思ひいでらるると
3 涙こそ あふみのうみと なりにけれ みるめなしてふ うらみせしまに
(『相模集全釈』の『異本相模集』から)
○万寿年間、相模は初瀬参詣の旅に?
【註:長谷寺は1025(万寿2)年に焼失。相模の参詣時期は1026~27(万寿3~4)年頃か?。】
●長元年間(1028~36)、公資は遠江守として最初の妻(広経母)・広経とともに下向
【註:『相模集全釈』では、公資の遠江国下向の時期を長元三年(1030)年末か、とされている。】
●長元年間(1028~36)、公資の遠江国赴任中に『異本相模集』が編まれる
【註:『相模集全釈』では、『異本相模集』の成立時期を長元3年(1030)頃か、とされている。】
むかし かたらひし人、遠き国よりのぼりて おとづれざりしかば、妻(め)かただにあり。
135 神かけて たのめしかども 東路の ことのままには あらずぞありける
(『相模集全釈』の『流布本相模集』から)
●長元8年(1035)5月16日、賀陽院水閣歌合に公資・相模が出詠
【註:『相模集全釈』では、歌合の時点の公資は「既に任終えて都に戻っていたものであろう」とされている。】
三十講の歌合せに、五月雨を
594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ
(『相模集全釈』の『流布本相模集』から)
「賀陽院水閣歌合」 八番 照射(ともし) 左勝 大江公資
15 さつきやみ あまつほしだに いでぬよは ともしのみこそ 山にみえけれ
(『新編国歌大観』から)
○長元8年(1035)7月18日、公資が「女事によって捕渡」
【註:7月18日の「女事~」の事項は『平安人名辞典‐長保二年‐』(槙野廣造編 1993年 高科書店)をもとに追加したもの。遠江守(前任者)としての公資は受領功過定のさなかであったか。晴れやかな歌合の直後の「女事によって捕渡」の内容は不明。】
○長元8年秋の「女事によって捕渡」をきっかけとしてか、公資は近江国にこもって厭世的な歌(『玄々集』119)を詠む?
公資 一首 遠江守
ことありて、あふみぢにこもり侍りける比
119 ことしげき 世の中よりは あしひきの 山の上こそ 月はすみけれ
(新編国歌大観』の『玄々集』から)
●長久元年(1040)、公資没