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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社「男神立像」のこと

2月の奈良への旅は、2012年に拝した伊豆山神社男神立像」のその後を訪ねるためだった。
(奈良博での今回の特別陳列・講座の中心は、奈文研によって保存修理された「銅造伊豆山権現立像」だった。修理により見事に蘇った「銅造伊豆山権現立像」の、胆力を備えた生き生きとした表情にも目を見張った)。
今回の旅の目的地…奈良博の展示会場に足を踏み入れると、真正面に伊豆山神社男神立像」が立ち現れた。想像していた通り、今回の主役である「銅造伊豆山権現立像」までも付き従えるかのように、生々しい存在感を放っていた。ドキドキしながらその謎めいた表情を間近に見上げる。2012年に初めて「男神立像」を拝した時、その表情は他者への興味を隠しながら、とりつくしまもない風を装っているかのように見えた。
今回もやはり、人間への欲望、知的な欲望を秘めたような老貴族の顔に見えてしまう。その独特の存在感は肖像彫刻としての個性に拠っているのだろうと思う。少なくとも神像として拝し崇める対象には見えてこない。
ぐるりと背中側に回ってみる。横からも眺める。血管の浮いた手の甲も、焼けただれた黒い木肌も、直ぐ目の前にある。何度も何度も見た。このように至近距離でつぶさに見ることができるとは予想していなかった。私に“モノを見る目が”あったならば、もっと良かったのに、とも思った。
 そうなのだ。今回の旅の目的は、私の目で見直すことではなかった。伊豆山神社男神立像」のその後の新たな研究成果が知りたかったのだ。そして、私にとって最も大きな驚きだったのは、その年代観を「10世紀」とする研究成果だった。これは…と思った。
これまで「男神立像」の年代については、素人勉強で“およそ11世紀前半”と想定していた(「伊豆山神社木造男神立像考」(鷲塚泰光 『三浦古文化』第30号 1981年)の「十世紀末から十一世紀初頭にかけての様式を明確に示す」との見解や、「熱海ゆかりの名宝展」(2012)資料の「平安時代中期 11世紀」の解説などをもとにして、そのように想定していた)。
そして、その年代観こそ、私が最も興味をひかれるものだった。歌人相模は1024年正月の走湯権現参詣(『相模集全釈』)の際に、この「男神立像」を拝したのか。そんなことに関心があったのだ。
また11世紀前半とは、相模国府がまだ大住郡(平塚市)に置かれていた時代であった。その後、まさに平安時代から中世へと、歴史の流れが大きく変容していくなかで、大住国府が収縮してゆく時代にあたっていたのだ。
それに対し、「男神立像」の年代を「10世紀」であるとするならば、「男神立像」への見方も変わってくる。10世紀といえば、相模国府域でも遺構・遺物がまだ豊富に検出される時期で、考古学的な検証が可能な時代だ。当時の相模国府と走湯権現との間に、何か係りがあったかどうかが気になってくる。また、神奈川県内に残る10世紀代の平安仏のなかに、年代的には「男神立像」の特異な神像造形も加わることになるように思われた(これまで、箱根を越えた相模湾岸地域として、早川~熱海は相模国と一つながりの文化圏のように感じてきた。箱根権現・走湯権現・高麗権現を結びつける背景、県内に残る平安仏の背景。それらが、どの時代にどのように交じり合うのだろうか。)
  「男神立像」の年代観が大きくさかのぼる…今回の陳列や講座を通して私が理解したのは、新たに提示された「男神立像」の「10世紀」という年代観は、『走湯山縁起』巻第五の康保二年(965)の記述に大きく拠っている、ということだった。「10世紀」の年代観は今後どのように検証されてゆくのだろうか。
 これまで「11世紀前半」と刷り込まれた頭の中に、まだ「10世紀」の「男神立像」のイメージが浮かんでこないまま、奈良博を出た。
 平塚へと戻る電車のなかで、チカチカと「男神立像」の姿が点滅する。
男神立像」の材がカツラではなくサクラ属であったこと、「頭部前面及び両手先・左足先(後補)を別材とする」(図録『伊豆山神社の歴史と美術』奈良国立博物館 2016年)ことも点滅する。
鷲塚泰光氏がその論考のなかで指摘されていた「京都・教王護国寺旧蔵(現在京都国立博物館保管)の十二天面中の火天や風天面にも似通うところがある」ということも点滅する。
結局、その後も謎めいたままの伊豆山神社男神立像」だったと思う。
その眉をひそめた表情は、昔も今も、そして今後も動じる気配はない…すべてが移り変わる世界のなかで、かつて平安時代に生み出された造形が、その時を静止したまま、残り続けて今もあることの不思議さをあらためて感じた。こうして奈良への旅が終わった。

図録『伊豆山神社の歴史と美術』(奈良国立博物館 2016年)
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