enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「デルフォイの御者」とエンペドクレス

 7月も半ばを過ぎた。早くも夏バテ(梅雨バテ?)だろうか、心も体も泥沼から抜け出せない。
 身体は放射能汚染水の沼にはまったかのように重く沈んでいる。炉心溶融した脳味噌溜まりからは、脈絡なく言葉が点滅したり、出鱈目なイメージが浮かび上がっては消えてゆく。
 
 脈絡のない言葉や出鱈目なイメージが浮き沈みする毎日から…
 
 昨日、”デルフィの御者像”を久しぶりに眺めることになった。きっかけは、ネットのニュース画像で、ゴールする短距離走選手の輝かしい姿を見かけたからだった。
 その若者の印象が、家にある”デルフィの御者像”に似ている、と思ったのだ(その石膏の胸像は旅の思い出に買ったものだったし、デルフィの考古学博物館に展示されているブロンズの「デルフォイの御者」の造形とは、遠くかけ離れている。それでも、その造形は「デルフォイの御者」の”一つの見え方”を伝えているように思い、買い求めたものだった)。
 しかし、実際に石膏像の表情をよく確かめてみると、その選手とそれほど似ているわけではないのだった。
 ただ、現代に活躍するアスリートの写真をきっかけに、「デルフォイの御者」に心を奪われた四半世紀前の時間をたぐり寄せることになった。
 その四半世紀前の時間には、三島由紀夫も顔を出した(そもそも、その美しい御者像がデルフィという地にあることを教えてくれたのが、彼のギリシャ紀行文だった)。
 そして、三島由紀夫が「アポロの杯」で、その御者像に人間の若者の純粋な美を見出していたのに対し、私の感動はそこには無かったのだ、ということに初めて気がついた。私が、デルフィの考古学博物館の一室で、その御者像に感動したのは、その若者の瞳の先に見えているもの…”時間の堆積”のようなもの…の静謐さだったからだ。
 
 次に点滅したのは、なぜか”ギリシャ哲学”と言う言葉だった。「デルフォイの御者」が造形された、およそ紀元前470年代には、どのような哲学者がいたのだろうか…と知りたくなったのだ。すると、御者像が造形された同時代の哲学者の中に、見覚えのある名があった。”エンペドクレス”という、”サンダルをそろえてエトナ山に身を投げた”とされる哲学者だった。
 これもまた遙か昔、1970年代に「赤頭巾ちゃん気をつけて」という映画を観て知った名前だった。そして今回、その哲学者がシチリア島の生まれであることを知った。そこから、いつものように出鱈目なイメージが広がっていった。四半世紀前の旅のために用意したギリシャ美術の資料を取り出すと、そこに次のような文があったからだ。

「「デルフォイの御者」
(前略)原作は、四頭立馬車に乗るこの御者像のほかに、一頭の轡を取る少年の馬丁が組み合わされた、一大青銅記念物であったと考えられる。発見物として(中略)二本の馬の後脚、蹄、尾、手綱、少年の左腕、そして銘断片(「ポリュザロスが私を奉献した…おヽ、アポロンよ、彼を美に導き、彼を幸福に至らしめよ」)がある。この銘文によって奉納者はシシリアのゲラの僭主ポリュザロスとされるが、彼の兄たち、シュラクサの僭主ゲロンもしくはヒエロンが関係した可能性もある。いずれにしろ前四七八年もしくは前四七四年、あるいはそれらの両方のピュティア祭における戦車競走の優勝を記念して、これらデイノメネスの息子(デイノメニデス)たちの一人によって寄進された、数少ない厳格様式時代の青銅彫刻の傑作である。」
                        【『ギリシャ美術紀行』(福部信敏 1987年 時事通信社)から】 

 「デルフォイの御者」のモデルが二十歳前後の若者であるならば、シチリア島出身の”エンペドクレス”(B.C.490頃-B.C.430頃)はほぼ同年代にあたる、と思った。 「デルフォイの御者」を奉納したとされるシチリア島の僭主たちは、エンペドクレスという若き哲学者を見知っていたかもしれない。また、エンペドクレスも 「デルフォイの御者」のモデルを見知っていたのかもしれない。そうするうちに、しだいに、エンペドクレスという若き哲学者と、「デルフォイの御者」とが重なっていった。御者像の瞳は、哲学者のまなざしだったのかもしれない…などと。

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旅先から大事に持ち帰った”デルフィの御者像”の石膏像(胸像)…ブロンズの「デルフォイの御者」は裸足で、サンダルをはいていなかったなぁ…などと、思い出す。