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私の第三十四夜をつづります。

眠っていた雑誌

 『別冊文藝・天皇制----【歴史・王権・大嘗祭】』(河出書房新社 1990年)
 
 2日前、鶴見までの電車のなかで何か読む本を…と、棚の奥を探してみた。
 あった、あった。
 大昔に古本屋で見つけた雑誌。
 そのまま読みもせず、棚の奥に眠っていた雑誌。
 発行から26年も経っている。
 なぜ今までしまい込んだままだったのだろう。
 
 今日の電車では、その雑誌のごく一部、”debateⅡ……天皇制の過去・現在・未来”を選んで読んだ。
 座談会の顔ぶれは、色川大吉/網野善彦/安丸良夫/赤坂憲雄(司会)。
 座談会の流れは、13に及ぶ項目立てで導かれている。
 不執政の時代 ・祭祀儀礼と権力 戦前・戦後の断絶と連続 津田左右吉の場所 
 大嘗祭廃絶以前と以後 ・大嘗祭は稲祭か 天皇制の都市的要素 柳田国男説をめぐって
 密教と即位儀礼 折口信夫説の可能性 アジアと天皇制 平成の大嘗祭 天皇制の将来像

 座談会でのやり取りは、私のような門外漢も、思わず耳をそばだててしまう(目を見開く?)ほどに刺激的だった。
 網野氏・安丸氏はすでに故人となった。
 2016年の今、天皇制についてもう一度、同じ顔ぶれでの座談会を聴きたいと思った。

 安丸氏の発言から:
「 別の言葉で言い換えると、日本の資本主義と現代国家の発展と天皇制は不可分のものであって、天皇制はそれ自体に何か大きな力を持っているわけではなく、社会の基本的な仕組みとの関係で位置とか意味とかを持っているということです。日本の社会の中から農村的な部分が失われても、都市にも農村にも権威や秩序のほうが大好きな人々がいっぱいいて、そういう人たちが天皇制を支えているのであって、こういう構造は今のところそう大きく変わりそうもない。
 天皇制がその一つの側面として農本主義的な性格をもっているとか、天皇家の人たちが体育祭や植樹祭に出席したり、社会福祉的な活動をしたりするというのは、たぶんそのイデオロギー的役割に相応しいことですね。直接的な権力闘争やむきだしの利益追求からある程度隔離された次元に存在して、政府や政党や企業が提供できないような権威を提示しつづけるためには、それを可能にするさまざまの要素を動員しなければならないのです。こうした権威的なものは、いまのところはやはり天皇制にある程度まで集約されているので、私たちはみな権威を崇め秩序に従うよう、天皇制によって訓練を受けているというわけです。
 僕は天皇制というものは近代の国民国家の形成と結びつけて理解すべきだと考えているわけですが、こういう立場からいうと、近代国民国家の初発に構成されたシステムは、その具体的内容はいろいろ変わるけれども、大きな枠組みとしてはわりあい継承されるんですね。このシステムが根本的に行き詰まればまた何かの変革があって新しいシステムをつくらなければなりませんが、その国がある程度成功裡に国民国家として展開している間は、初発のシステムが生き延びていくという性格をもっている。だから結局、天皇制の問題というのは何かといえば、われわれが国民国家日本に帰属していることの証なのであって、私たちのそうした帰属がつくりだしている秩序や強制力のことなのだと考えます。」