先に挙げた『走湯山縁起』の①の記事(応神朝)では「円鏡」が出現し、②(仁徳朝)では「神霊附託」により「老巫」を通して「異域神人」・「日輪の精体」であることが語られた。
そして、続く③の記事(仁徳朝)では「老巫」が俗体に形を変え、次のように可視的な…神像表現が可能な?…存在となって顕現する。
③「于時老巫変レ形示二俗体一。其長八尺。壮齢五十有余。頭戴二居士冠子一。身着二白素衣裙一。係二健陀色袈裟一。右手持二水精念珠一。左手把二錫杖一。柔和忍辱。慈悲和雅也。」(巻第一)
また、④の記事(欽明天皇11年:550年)では「天下大疫」に際して臨時祭祀が行われ、「金銅鏡」と「権現御体」が神殿に込められる。そして、その「権現御体」の「御衣木(みそぎ)」の由来…「和泉国茅沼海中」に出現した「長九尋楠木」を彫刻した「吉野光像」であるとの由来…が記される。
この④の時点の”権現像”は「六尺二寸」(約188cm)とされ、③の「俗体長八尺」(約242cm)より小さいが、現存の伊豆山神社「男神立像」(”長”約193cm)に近い大きさとなっている(「六尺」ではなく、「六尺二寸」と仔細な数字であることに何か意味があるのかどうか…)。
そして④では、③のような具体的な姿は記されていない(「吉野光像」に類するのならば、仏像に近い姿をイメージすればよいのだろうか?)
【註:伊豆山神社「男神立像」の”長”は、”像高212.2cm-(頂~顎44.2cm-冠際~顎25.0cm)=193.0cm”として導き出した数字。③の「六尺二寸」と比較するために、髪際高に近いと思われる高さを計算したもの。】
①~④に続いて、次の時期の記事を抜き出すと以下のようになる。
〔推古朝(593~628年)〕
⑤「有二勅謚御諱一。号二東明山広大円満大菩薩一。神号走湯権現云々。又有二宣命一。被レ訊二神之本地一。当国刺史益田邦照朝臣。宣使莅二当山一。以二宣命一附二座頭金地上人一。上人与二邦照沐‐浴霊湯一。捧二幣帛一排二社戸一。跪暢二宣状一。于時千手観音像。浮二円鏡之面一。金色具二十一面一坐二青蓮華一。但眉間有二竪眼一。違二世間流布之像一。座頭金地上人。宣使邦照以二肉眼一親拝二霊儀一。具勤二故実一。催レ駕上京。有二叡感一。如二所現之像一。於二円鏡之面一鋳二千手之像一。裏二錦袋一納二金筐一。被レ奉レ安‐置一神殿二。」(巻第二)
⑤の記事(推古朝)では、①(応神朝)時点の「仙童(松葉仙人)」(応神朝~仁徳朝)、④(欽明朝)時点の「木生仙人」(仁徳朝~清寧朝~欽明朝)に続いて、「金地上人」(敏達朝~推古朝)が登場する。
そして、「東明山広大円満大菩薩」、「走湯権現」の号が記され、「神之本地」が「千手観音像」とされる。円鏡に浮かんだその姿は金色で十一面を具し、青蓮華に座し、しかも眉間に「竪一眼」を持つことで、世間に流布する千手観音像とは異なっている、と記されている。
⑤の記事は仏教伝来以降の事項であり、本地は具体的に千手観音とされている。