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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”②

 先に挙げた『走湯山縁起』の①の記事(応神朝)では「円鏡」が出現し、②(仁徳朝)では「神霊附託」により「老巫」を通して「異域神人」・「日輪の精体」であることが語られた。
 そして、続く③の記事(仁徳朝)では「老巫」が俗体に形を変え、次のように可視的な…神像表現が可能な?…存在となって顕現する。

③「于時老巫変形示俗体其長八尺壮齢五十有余頭戴居士冠子身着白素衣裙。係健陀色袈裟右手持水精念珠左手把錫杖柔和忍辱慈悲和雅也。」(巻第一)

 また、④の記事(欽明天皇11年:550年)では「天下大疫」に際して臨時祭祀が行われ、「金銅鏡」と「権現御体」が神殿に込められる。そして、その「権現御体」の「御衣木(みそぎ)」の由来…「和泉国茅沼海中」に出現した「長九尋楠木」を彫刻した「吉野光像」であるとの由来…が記される。
 この④の時点の”権現像”は「六尺二寸」(約188cm)とされ、③の「俗体長八尺」(約242cm)より小さいが、現存の伊豆山神社男神立像」(”長”約193cm)に近い大きさとなっている(「六尺」ではなく、「六尺二寸」と仔細な数字であることに何か意味があるのかどうか…)。
 そして④では、③のような具体的な姿は記されていない(「吉野光像」に類するのならば、仏像に近い姿をイメージすればよいのだろうか?)

【註:伊豆山神社男神立像」の”長”は、”像高212.2cm-(頂~顎44.2cm-冠際~顎25.0cm)=193.0cm”として導き出した数字。③の「六尺二寸」と比較するために、髪際高に近いと思われる高さを計算したもの。】

 ①~④に続いて、次の時期の記事を抜き出すと以下のようになる。

〔推古朝(593~628年)〕

 ⑤「有勅謚御諱。号東明山広大円満大菩薩。神号走湯権現云々。又有宣命。被神之本地当国刺史益田邦照朝臣。宣使莅当山。以宣命座頭金地上人。上人与邦照沐‐浴霊湯。捧幣帛社戸。跪暢宣状。于時千手観音像。浮円鏡之面金色具十一面青蓮華眉間竪眼世間流布之像座頭金地上人。宣使邦照以肉眼親拝霊儀。具勤故実。催駕上京。有叡感。如所現之像。於円鏡之面千手之像。裏錦袋金筐。被安‐置神殿。」(巻第二)

 ⑤の記事(推古朝)では、①(応神朝)時点の「仙童(松葉仙人)」(応神朝~仁徳朝)、④(欽明朝)時点の「木生仙人」(仁徳朝~清寧朝~欽明朝)に続いて、「金地上人」(敏達朝~推古朝)が登場する。
 そして、「東明山広大円満大菩薩」、「走湯権現」の号が記され、「神之本地」が「千手観音像」とされる。円鏡に浮かんだその姿は金色で十一面を具し、青蓮華に座し、しかも眉間に「竪一眼」を持つことで、世間に流布する千手観音像とは異なっている、と記されている。
 ⑤の記事は仏教伝来以降の事項であり、本地は具体的に千手観音とされている。
 そして興味深いことは、その姿が現在の私たちがイメージする千手観音像と異なって、”竪眼を持つ十一面千手観音坐像”であることだ。⑤では本地仏に焦点がしぼられ、”権現像”のあり方は、④の記事と同様、③以上のイメージは示されていない。