enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2017年5月の記憶。

~Tさんへ~
私が暮らす町の駅の南口は、小さなロータリーになっています。
その小さなロータリーの公園の真ん中に、人魚姫の像が立っています。
海風に吹かれ、いつも一人ぼっちの人魚姫も、五月の今、目覚めはじめた薔薇たちに囲まれています。
色彩と香りを競い合う薔薇たちの下陰には、涼しい花々が咲き乱れています。
(夕方の買い物帰り、つい立ち寄ってしまいます。公園には、乳母車をひく人、花々の手入れをされている人、ベンチで電話をかける人。みな“美しい五月”のまっただなかにいます。)

2017年5月。
この小さな公園と地続きの場所に、現政権が地中深く蠢き続けている政治空間があること。
目の前の季節とはかけ離れた場所に政治の現実があります。
一方で、私の記憶を納める器の底に小さな穴があきはじめています。
私にとって白蟻のように不気味な存在になりつつある現政権の記憶も、いつか砂時計の砂のように、私の中からきれいに流失してしまうのだろうと感じるこの頃なのです。

今朝、全国紙東京版のTOPに、唐突な皇室関連記事を押さえて、政権中枢部を揺るがす(はずの)記事が踊っていることを知りました。
(私が住む地域の朝刊には間に合っていませんでした。詳しい内容については夕刊を待つしかありません。)

こうした今朝の全国紙東京版のTOP記事さえも、またもや、人々の耳目を集める別件報道によって潰され、早々に人々の関心の外に追いやられてしまうのかもしれません。
政権中枢部と、国会及びメディアとの間で繰り返され続けている攻防を遠目に見つつ、表向き、人々は現政権に身を委ねる振る舞いを見せ続けているのですから。

私には政治的使命、いや政治的生命を終えたと思われる現政権であっても、その政権を安定と判断して身を委ねる人々が一定数を保つ限り、現政権はなりふり構わず、あらゆる手段を講じて、その延命措置を工作するのでしょう。
その先に、どのような国の姿があるのでしょうか…。

季節のたゆみない移り変わりと繰り返しがあります。
不変。普遍。信じるに足るものがまだある…そう思えることが最後の救いです。

私がこの2017年5月をいつの日かふり返る時、咲き誇る薔薇たちの記憶だけでふり返るのか、それとも不自然に延命を続けた“当時の政権”の記憶をともなうのか。
自分でもほんとうに覚束ないこの頃なので、貴方にあてて今の思いを書いておくことにしました。

また次の季節に会いましょう。

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5月16日の薔薇

追伸:
待っていた夕刊が届きました。おそらく、まだご覧になっていない貴方に、この夕刊のTOP記事の雰囲気をお伝えしたいと思いました。
この記事の隣には、「トランプ氏 捜査中止要請 米紙報道 ロシア疑惑FBI に」の見出しが並べられています。奇しくも、民主主義の枠組みのなかで人々の意思によって選ばれた日米両政権の現実の姿を見せつけるような紙面構成になっています。
時代の流れのなかで、私たちがはまり込んでしまった悪路から抜け出すには、何がもっとも必要なのでしょうか。答えはどこにあるのでしょうか。
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