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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き②:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

 5月6日、天王寺駅から四天王寺に向かった。
 2013年夏、初めて『相模集全釈』を手に取ってから、”天王寺”(四天王寺)とはどのようなところなのだろう…と思い続けてきた。いよいよ、その”天王寺”を訪ねることになったのだ。

 『相模集全釈』のなかで、「流布本相模集」の”序”に続く全597首の歌は、次の連作9首から始まる。
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      寛弘の御時(おほんとき)ばかりにや、天王寺の歌とて人々よむをりがありしに

      西大門
 1  極楽に 向かふ心は へだてなき 西の門(かど)より ゆかむとぞ思ふ
      
      亀井
 2  千代すぎて はちすのうへに のぼるべき 亀井の水に かげはやどらむ

      舟
 3  うき島に みなとをいかで はなれなむ のりかよひける 舟のたよりに

      塔のるばむ
 4  みがきける 黄金(こがね)かはらぬ塔をこそ 君が肌への かたみとはみれ

      仏舎利
 5  灰きえて 分ちしたまも つとむれば いとぞ光りぞ かずまさりける

      弓
 6  思はずに あたや仏と なりにけむ のりになひきし 弓にひかれて

      をがみの石
 7  をがみける しるしの石の なかりせば たれか昔の あとを見せまし

      くろ駒
 8  のかふかな 甲斐のくろ駒 はやめけむ のりのにはにも あはぬ我が身を
      
      池のはちす
 9  人しれぬ 涙はつみの ふかきかな いかなる池の はちすおふらむ
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 この連作9首の成立について、『相模集全釈』では【参考】として次のように分析されている。
「 詞書に「寛弘の御時ばかりにや、天王寺の歌とて人々よむをりがありしに」とあり、寛弘期の歌で、歌集中詠歌年の判明する最も早い時期のものである。天王寺の歌と題して、人々に伍して相模も歌を詠んでいるところをみると、宮仕え先で詠まれたようである。
  この天王寺詠は、たとえば赤染衛門集の天王寺参詣の連作、栄花物語に記される天王寺参詣の詠などに比べ、実感に乏しい。殊に 3ふね 6弓 8くろ駒 などの歌は観念的で、実際に参詣してみたものを詠んだものとは思われない。秋山光和著の『王朝絵画の誕生』(中公新書)によれば「四天王寺では法隆寺より古く、奈良時代の末から聖徳太子の伝記絵が描かれていた」と記されている。このような伝記絵を模造した屏風絵か障子絵があって、それを見て同座の人々が詠んだのではなかろうか。 
 なお、今回の探訪のなかで四天王寺を訪れたのは、次のような妄想をもとにしている。
 歌人相模が、連作9首を詠んだ寛弘期の時点(『相模集全釈』では、1011年頃までに詠まれたと推定)で「天王寺」を訪れていなかったとして、その後、歌人相模が「天王寺」を訪れる機会があったとすれば、それは初瀬参詣の路程のなかではなかったか…という妄想だ。
(註:連作9首の3・6・8の歌が観念的であることをもって、歌人相模は「天王寺」を実際に参詣して詠んではいない…とすることはできないように思う。ただ、3や8の歌は、いかにも絵画として描きこまれた情景を詠んだ歌のようにも思える。
 つまり、歌人相模が寛弘期の時点で「天王寺」を実際に訪れたのか、訪れていないのかは分からない。私の今回の探訪は、あくまでも、歌人相模がその人生において、一度は「天王寺」を訪れたことがあったのではないか、それは初瀬参詣の帰路のなかではなかったか…との想定をもとに、その足跡をたどろうとしたものだ。)

現在の天王寺駅から四天王寺に向かう道筋に立つ道標
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