今回の旅を終えたあとも、四天王寺について、さまざまな情報をあれこれとつまみ読みした。
そのなかに、国宝『四天王寺縁起』は11世紀(1007年)に再建された金堂内で発見されたもの…というものがあった。
その「1007年」(寛弘4年)が、歌人相模が天王寺連作9首を詠んだ時期(『相模集全釈』では”寛弘年間の1011年頃まで”とされている)とかなり近いことが気になった。
またいつものように妄想が広がってゆく。
『四天王寺縁起』の研究成果の現状など、私には知る由もないけれど、「1007年発見説」の可能性がいまだ残されているのならば、歌人相模の天王寺連作9首の背景にも係わりそうな情報であるように感じた。はたして、どうなのだろう…。「1007年発見説」はどこから生まれたものなのだろう…。
〔補記:上記の私の疑問については、すでに『相模集全釈』のなかで、次のとおり、明らかにされていることを知った。
「『荒陵寺御手印縁起』は、奥書によれば「寛弘四年八月一日、此縁起文出現、郷都維那十禅師慈蓮、中求出之」とあって、まさにこの歌の詠まれた寛弘年間に金堂の六重塔より出現したものである。」(『相模集全釈』:「2 亀井」の歌の【参考】より引用)〕
この『四天王寺縁起(荒陵寺御手印縁起)』出現のエピソードが、歌人相模の心にも強く印象づけられたことが想像される。当時の貴族女性にとって、天王寺とは”一度は訪れるべきところ”となったのではないだろうか。〕
亀井
2 千代すぎて はちすのうへに のぼるべき 亀井の水に かげはやどらむ
亀井堂:今まさに、現代の善女の方々が”亀井の水”を訪れているところ。
堂内(内部は撮影できない)には湧水をたたえる石槽が設置されていた。その形が、飛鳥の小判形石造物に良く似ていることに驚く。
あの飛鳥の特異な石造物と同じようなものが、ずっと四天王寺内に存在してきたのだ…歴史的な時間と文化が、足元から地下水として湧出している…その地下水は繋がっている・・・そんなふうに感じた。
地下水面に漂う経木を見守る女性たち。こうした無言の無数の祈りが、この四天王寺を支えているのだろうと思った。
舟
3 うき島に みなとをいかで はなれなむ のりかよひける 舟のたよりに
この「3 舟」の歌について、『相模集全釈』の【語釈】では、
「○舟 天王寺に舟、あるいはそれに類したものがあったという記録はないが、『金葉集・二度本』(雑下 六四七)には
「屏風絵に、天王寺西門に、法師のふねにのりて、西ざまに こぎはなれいくかた かきたるところをよめる 源俊頼朝臣 あみだぶと となふるこゑを かぢにてや くるしき海を こぎ離るらん」 というのがあり、(中略) 天王寺縁起に関する屏風絵や障子絵があったらしいので、題の「舟」はそうした絵にもとづいて詠まれたものであろう。」と解釈されている。
「仏舎利」(5の歌)や「弓」(6の歌)については、屏風絵や障子絵の題材というより、やはり縁起絵巻のようなものがあったのか、と納得する。その一方で、「舟」については、11世紀の天王寺から”茅渟海”を望むことができたのであれば…と、実景としての”舟”を夢想したりもする。
塔のるばむ
4 みがきける 黄金(こがね)かはらぬ塔をこそ 君が肌への かたみとはみれ
五重塔の相輪と露盤
5 灰きえて 分ちしたまも つとむれば いとぞ光りぞ かずまさりける
金堂(修理中)と西重門・西大門: この金堂内の舎利塔に仏舎利が安置されているという。
<参考:大阪四天王寺境内実測図(1935年)>
(四天王寺で販売されているクリアファイルに印刷されていた古い図面をコピーさせていただきました。)