enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪の続き⑤:「竹渕」(たかふち)、そして四天王寺

 旅から帰って、”荒陵山四天王寺”の周辺地域では、古墳時代の円筒埴輪などが発見されていることを知った。あの四天王寺の地に、かつて古墳が存在していたのだろうかと、わくわくとした気持ちになる。
 また、西大門の石鳥居、亀の池の石舞台、亀井堂の石槽、宝物館近くに展示されている長持形石棺蓋や「四天王寺の石槽」、そして「四天王寺の四石」などを巡って歩きながら、この四天王寺は、石造物に興味を持つ人にも、とても魅力的な場所ではないかと感じたことを思い出す。
 私が見た”四天王寺の石たち”のなかには、古墳時代の石室・石棺の石材として知られる”竜山石”や”阿蘇ピンク石”と推定されているものもあるようだ(なぜか、より近隣の”二上山白石”などの石材情報は見当たらなかった。重い石材を運搬するには近いほうが便利なのに…と思うのは私だけなのだろう)。 
 
      弓
 6  思はずに あたや仏と なりにけむ のりになひきし 弓にひかれて
 
 『相模集全釈』で「観念的」とされた歌(3・6・8の歌)の一つ。私としては逆に、天王寺を参詣したことのない年若い歌人相模が、縁起絵や伝聞をもとに(?)これらの歌を創造したのであれば、そのことに驚かされる。そして、歌集の序の後に掲げられたこの9首というものが、晩年の歌人相模にとって、どのような作品群であったのだろうか、と思うのだ。

      をがみの石
 7  をがみける しるしの石の なかりせば たれか昔の あとを見せまし

イメージ 1
「転法輪石」の位置を示す石版(金堂前)
 改修中の金堂はまさに工事現場。その陰になっているので、金堂との位置関係は良く分からない。
 このすべすべと滑らかな”現代の転法輪石”の下に保存されている「転法輪石」については、発掘調査報告書(『四天王寺 埋蔵文化財発掘調査報告 第六』 1967年 文化財保護委員会)に掲載されている白黒写真をネット上で確認できた。その石が歌人相模が詠んだ「をがみける しるしの石」であるのならば、それはどのような色と質感の石なのだろう。

イメージ 2
「引導石」(石鳥居付近)
 玉砂利から出ている部分が全てなのかどうか分からないけれど、「四天王寺四石」のなかでも、もっとも自然な石に見えた。

イメージ 3
伊勢神宮遥拝石」(東大門前)
 こちらも自然な雰囲気の石。説明板では、明治初年に東大門外から現在地に移したものとされている。長持形石棺蓋や四天王寺の石槽」と同じように、本来の性格や原位置は不明の石なのだろう。

イメージ 4
「熊野遥拝石」(南大門付近)
 石室の天井石にも使えそうなほどに大きく、直線的で整った形。”阿蘇ピンク石”とも推定されているようだ。何らかの重要な性格・機能を持っていた石なのだろう。説明板では、石材や位置の移動などについては書かれていなかった。

イメージ 7
<参考>南大門から見る庚申街道:西大門に比べ、南大門は道路面よりかなり高いことが印象に残った。

イメージ 5
<参考>長持形石棺蓋(宝物館付近):”竜山石”との推定があるようだ。ずいぶんと傷んでいる。

      くろ駒
 8  のかふかな 甲斐のくろ駒 はやめけむ のりのにはにも あはぬ我が身を

 『相模集全釈』の【通釈】・【参考】によれば、歌意は、「うとまれることです。聖徳太子が野飼いの甲斐の黒駒に乗って早駆けさせたという(馬場ではなくて)仏法の修行の場である天王寺にもまだお詣りしていない我が身が。」というものであり、「のりのにはにも あはぬ我が身」と言っていることから、連作9首が「実際に参詣した時の歌ではないことがわかる。」とされている。
      
      池のはちす
 9  人しれぬ 涙はつみの ふかきかな いかなる池の はちすおふらむ

イメージ 6
「亀の池」
 歌のような蓮こそ見当たらなかったけれど、たくさんの亀たちが甲羅干ししていた。

 こうして、現代の四天王寺で、歌人相模の寛弘期に詠んだ連作9首の歌の跡をわずかながらもたどることはかなった。しかし、その後の歌人相模が天王寺参詣を果たしたのかどうかは謎のままだ。その参詣の可能性を探るためには、初瀬参詣7首中の「竹渕」の位置の特定が必要なのだけれども…。