場所の記憶…個人の社会的記憶というものは、雑多な要素からなる”或る雰囲気”として記憶の奥底に沈んでいるらしい。それが時たま、眼の前の風景に呼び起こされて、”或る雰囲気”の記憶として浮かび上がってくるらしい。
あの大都会のターミナルが人々の熱気で埋め尽くされる時、その熱気は人々の場所の記憶になってゆくのだろう。そして、それは何度も繰り返されるのだろう。選挙が終わった今、そんなことを思う。
25日の夕方、海に向かった。
台風に揺さぶられ、くわえこんでいた人工物を浜辺に吐き出した海。
その青ざめたようなヒスイ色は、まだ酔いが残っているかのようにも見えた。
平塚の海…私にとって、雑多でもない、雰囲気でもない場所。
個人的な場所の記憶として、平塚の海は私のなかにある。
10月25日の海
10月25日の浜辺から見る空