しかし、今、目の前に広がっている曼荼羅は、金色に光り輝く図像が、暗い海底から浮かび上がって定着したように、生々しい立体感をもっていた。それは、信仰世界のなかの言葉や音が、描線という流れの中に表出されたような立体感、とでも言えばよいのだろうか(自分でも、余計、分からなくなっている)。
そして、その細部の繊細な印象は、以前見たことがある長谷川潔の銅版画の技法を連想させた。また、金泥経の文字(抽象)世界が描線(絵画)世界に変じたもののようにも思えた。
私が受けた衝撃は、この繊細で壮大な曼荼羅が、当時の人々がどれほどに真摯な、全身全霊的な追求の果てにたどり着いた世界であるのかを、ありありと感じさせてくれたからだ。その衝撃は、ビデオで東寺の曼荼羅の細部を眼にした時にも感じたものだ。
21世紀の今、この曼荼羅に匹敵する世界はもう生まれないのでは?…衝撃を受けたあと、そんなことを思った。
2月21日のカンザクラ(上野公園)