27日、鎌倉に出かけた。
目的地は扇ガ谷一丁目の「鎌倉歴史文化交流館」、そして雪ノ下四丁目の「勝長寿院旧蹟」だ。
初めて訪ねる文化交流館は、やぐらを残す崖を背にして、春の静かな陽射しにぬくもっていた。いつもながら、鎌倉は駅からわずかに離れるだけで、こうした別天地にさまよい込むことができる町なのだな、と思う。
館内の展示はそのスタイリッシュな(といえばよいのだろうか?)建物空間にふさわしく、扱うテーマは精選され、煩雑な流れや解説は削ぎ落とされ、シンプルに”見せる美しさ”・”見せる新しさ”を目指しているように感じられた。
おそらく、想定された来館者像は観光で鎌倉を訪れた人々なのだろう。鎌倉の多様な歴史と文化を、”選りすぐられたモノ”を通して、端的に把握してもらえるように構成されているのだった。
別館の考古展示室では、「永福寺」や「大倉幕府周辺」・「若宮大路周辺」出土の資料群が、まさに中世鎌倉の新たな魅力を物語っていた。”これまでの鎌倉”を掘り起こした成果が、確実に、”現在の鎌倉”という地の重層的・立体的な像の形成へとつながっている…そんなふうに感じた。
館の外に出ると「無量寺跡」という歴史を偲ばせるように、谷からの水が小さな池(水たまり)をつくっていた。やぐらを抱える崖の頂上へのぼってゆく。道際にはスミレがそこかしこに咲いている。日当たりが良いのだ。背の高いツバキもつややかな緑のなかに鮮やかな赤い花を散りばめている。
崖上の「合槌稲荷社跡」からは遠く水平線も望めた。
海、そして密集した市街地の広がりを眺めながら、この鎌倉の閉鎖的な地形が育んできたもの、そして、選りすぐることのできない歴史のアクやオリのようなものについてこそ、言葉多く考えるべきなのだろう…そんなことを思った。
文化交流館を後にして、八坂大神・寿福寺へと向かった。寿福寺もまた、初めて訪れた時と同じようにひっそりとしていた。そして線路を渡り、観光客で賑わう八幡様の前を横切って、”岐れ道”に行き着く。その先で滑川を渡り、さらに細い大御堂川を左手にして、南の谷奥へと緩やかにのぼってゆく。
目当ての「勝長寿院旧跡」の周辺では新たな宅地開発が行われているようだった。「勝長寿院」を偲ぶ空間をこの場所に求めてよいのだろうか?とあたりを見回してみる。このように狭い谷あいの地で、南面するか東に向く寺院だったのでは?と想像しても、それほどの広がりのある空間は見当たらないように思えた。
「勝長寿院旧跡」に係わるような発掘調査の勉強をしてこなかったことを悔やみながら、目の前の石碑群の姿を撮るしかなかった。なぜか、大津の旅で訪れた源義光の墓前の光景を思い出す。以前の私には何の興味も無かった源義家や義光、そして義朝。今はこうして、その史跡を訪ね歩くようになっていることの不思議。
次に来る時には谷の突きあたりまで歩いてみよう。そう決めて、細い道を折り返し、鎌倉の賑やかな街中へと戻った。
相模湾と市街を望む(「合槌稲荷社跡」から)
隣の大木を取り囲むツバキの花(「合槌稲荷社跡」の山で)
八坂大神(八坂神社)の梅の花:
生まれ育った家で咲いていた梅の花に、大きさも色合いも良く似ているように思えた。
「勝長寿院旧蹟」
「源義朝公主従供養塔再建由来の記」:
<碑文内容>
「この辺りは大御堂の谷戸といい 文治元年(1185) 源頼朝が父左馬頭義朝の菩提を弔うため建立した勝長寿院の旧蹟であります
今から十数年前までは この流れの上手 雪ノ下四丁目十五番地十五号の地に 源義朝とその郎党鎌田政家の首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていましたが 宅地開発でその敷地の所有者が変わり 供養塔もその姿を消しました
谷戸の住民はこれを深く残念に思い 再建を計るべく関係筋と協議を重ねた結果 志の浄財とこの土地の所有者の厚意により この度 由緒ある供養塔を再建することができました
ここに由来を誌し 感謝の意を表します
末長く鎌倉歴史探訪の一助となることを願ってやみません
昭和五十九年四月吉日 源義朝公主従供養塔再建委員会」
「この辺りは大御堂の谷戸といい 文治元年(1185) 源頼朝が父左馬頭義朝の菩提を弔うため建立した勝長寿院の旧蹟であります
今から十数年前までは この流れの上手 雪ノ下四丁目十五番地十五号の地に 源義朝とその郎党鎌田政家の首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていましたが 宅地開発でその敷地の所有者が変わり 供養塔もその姿を消しました
谷戸の住民はこれを深く残念に思い 再建を計るべく関係筋と協議を重ねた結果 志の浄財とこの土地の所有者の厚意により この度 由緒ある供養塔を再建することができました
ここに由来を誌し 感謝の意を表します
末長く鎌倉歴史探訪の一助となることを願ってやみません
昭和五十九年四月吉日 源義朝公主従供養塔再建委員会」
「勝長寿院旧蹟」までの道筋に建つ「文覚上人屋敷跡」の碑:
滑川に架かる「大御堂橋」のすぐそばに建つ。たまたま、今読んでいる本が『文覚』(山田昭全 吉川弘文館)だった。ゆかりの地に巡りあうことができた。
この『文覚』の”略年譜”には、次のような事績も記されている。
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「文治元年 一一八五 (文覚)四七(歳)
…八月三〇日、頼朝、亡父追善の志あり。院、この旨を聞き東獄門より義朝・鎌田正清の首をさがさせ、公朝を勅使として文覚の門弟(恵眼房)鎌倉に持参。九月三日、南御堂に埋葬。…」
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【追記】:「勝長寿院旧蹟」で撮った写真を見直してみた。撮っている時点では足元の石に注意が向かなかった。今、写真を見直し、まさか礎石だったのだろうか?などと妄想が浮かんでくる。