29日、東京に出かけた。
学生時代の友人たちと3年ぶりに逢い、2時間ほどを過ごした。
3年の間、それぞれに年を取り、さまざまなことを経たとしても、みな、そうは変わらない。
そうは変わらずに、再び出会い、短い時間をともにする…それだけで充分に嬉しい。
そして、日頃、声を出して笑うことが少なくなっているのだろうか、自分の笑い声に自分で驚いたりもした。
日比谷の街角で友人たちの笑顔を見送ったあと、六本木まで足を伸ばすことにした。
「濤声」と「山雲」…それらをこれから本当に観ることができるのだと思うと、疎遠な都会の空がどこまでも明るく広がるような気持ちになる(なんと単純な…)。
月曜午後の美術館は人々の列も渦も無かった。
「濤声」の展示室では、椅子に腰掛け、目の前に広がる”海”を眺め渡した。
凄い仕事だと感じ入った。そこに、襖絵の奥に、本当に”海”が出現しているのだったから。
翡翠色の波がその淡さを移ろわせながら沖合いから浜辺へと進んでゆく。
ことに浜辺に寄せてゆく波に見入るうちに、それが襖絵であることを忘れ、波の色の中に吸い込まれてゆくような気がする。
平塚の冬の海も、波裏に、この翡翠色と同じ色を見せることがある…そんなことも思う。
岩に堰かれ、たゆたう波。岩間から零れ落ちる波。誰もが見たことがある波がそこにあった。
かの鑑真和上の耳に波音が響く時、その心のうちに広がる波はこのような波ではないのか…画家はそう感じながら、この波を描いたのではないか、とも思った。
展示室をゆっくり巡って外に出ると、東京の空はすでに暗くなっていた。
心が高揚しているからなのか、慣れない靴で痛めた足に脅かされることもなかった。
いつも、こんな一日であれば良いのに。
窓:スクリーンを通して見る東京の青空。友人たちの笑い声も同じほどに明るかったと思う。