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私の第三十四夜をつづります。

塩田平の寺々(2)

 13日朝、宿に荷物を預け、友人たちと近くのお寺を巡った。
 前日、荷物を担いだまま歩き回ったせいか、足の筋肉には疼きがあった(空身で歩けるありがたさ…)。
 
 湯川の小さな流れに沿ってゆるやかな坂を上り、北向観音安楽寺常楽寺と、谷合いの狭小な空間に閉じ込められた平安時代鎌倉時代の時間の痕跡をたどる。
 時間の痕跡…寺々の開山の伝承などとは別に、常楽寺石造多宝塔には「奉納 施主 阿闍梨 頼真 弘長二年 壬戌 四月五日」の銘があること(*弘長二年は1262年)や、安楽寺八角三重塔の用材の伐採年代が正応二年(1289年)と判定されていることなど、特定された時間の痕跡も残されていた。また、寺のところどころに見られるミツウロコ紋は、北條氏による事跡の痕跡を伝える”しるし”のようだった。
 この小さな温泉地には、時間を刻印するような痕跡だけでなく、宗教や祀りといった文化が地方の人々の暮らしのなかに劇的に?流入した痕跡が、まだ掘り起こされないままに埋まっているのかもしれない…そんなふうに想像した。今回もまた、不勉強なまま出かけたことを後悔した…しかし、もう遅い。


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「二十六夜」の扁額(北向観音愛染明王堂):月待ち信仰での”二十六夜”の本尊が愛染明王?(”二十三夜”は勢至菩薩…これは確かなはず…たぶん)。

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懸造りの温泉薬師瑠璃殿(北向観音):どのようにお参りすれば良いのだろうか?

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北向観音の案内板:天長2年の”激しい鳴動”を発端とする伝承が興味深い。観音堂のなかには、1847年の善光寺地震長野市直下、推定M7.4)で被災した人々を描いた板絵が架かっていた。平安時代、そして江戸時代などに頻発した巨大な地震の記憶が、さまざまな形で各地で強く刻まれていることを思う。

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北向観音からの眺め:観音堂を抱く山の標高は673m。昨日の中禅寺からは、残念ながら、こうした眺めは得られなかった。

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      別所の市神の碑と石壇:右手には安楽寺の黒門が建つ。

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裳階付き木造八角三重塔(安楽寺):塔の姿を見上げつつ、石段を上る。エキゾチックな塔の姿。

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八角三重塔の垂木・組物(安楽寺):組物が壁材となっているような…。

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八角三重塔の裳階の下:さざ波のような、雁が飛び続けるようなリズムの欄間が美しい。”弓欄間”という名前を知る。

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常楽寺本堂

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常楽寺の案内板

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苔むす石造多宝塔(常楽寺

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石造多宝塔の案内板(常楽寺

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常楽寺からの眺め

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別所温泉駅:2018年の秋の旅が終わってゆく…。