今回歩いた道筋は、二つの案内図をもとに選んだものだ。
準備段階では『近鉄 てくてくまっぷ 大阪-16』と、『かしわらガイドマップ①雁多尾畑の里と竜田古道コース』。そして、探索の途中からは『うぉーきんぐmap 龍田古道』に頼って歩いた。
《主な通過地点》:高低差およそ250mほどを、7時間ほどかけて、ゆっくり歩いた。
JR高井田駅(標高約25m):start
地蔵堂(約125m)
「勅願所 松谷御堂」石碑(約165m)
堅上中学校(約125m)
堅上小学校(約135m)
金山媛神社(約165m)
松谷光徳寺(約225m)
竜田古道の里山公園(約250m)
「伝 龍田本宮御座峰」石碑(約285m)
龍田神社本宮跡〔磐座〕
三室山展望台(約137m)
磐瀬の杜・万葉歌碑【鏡女王】(約40m)
万葉歌碑【高橋虫麻呂】
龍田大社(約65m)
神奈備神社(約45m)
JR三郷駅(約40m):goal
こうしてふり返ると、今回採ったルートに限れば、『難所ルート?』という予想は外れたといって良いのだと思う。
そもそも、平安時代の旅人が「竜田道」として、具体的にどういう道筋を採ったのか、分かっていない。
”竜田道”というものについて、次のような解説から得られる情報やイメージは、ごく大まかで限られたものだ。
_________________________________________
「…竜田道とは、いわゆる「竜田越え」(万葉626)のことで、大和と河内を結び、法隆寺の南から竜田大社の前を通り、大和川北岸の竜田山を越えて竹原井(現大阪府柏原市高井田)にぬける道である。…」 (『角川日本地名大辞典 奈良県』 角川書店 1990年)
_________________________________________
〔註〕万葉626:「きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく(たつたこえ みつのはまべに みそぎしにゆく)」
そして、予想外に比較的ゆるやかな道筋であったので、平安時代の旅人も、変則的に採ることがあったルートの一つかもしれない…そう都合よく考えたりした。
11c初め(?)の神無月、果たして、歌人相模は初瀬参詣に際し、この”竜田道”を採ったのだろうか?
同じように、歌人相模にも、神無月の初瀬参詣に”竜田越え”ルートを選んでいてもらいたいものだけれど、彼女はここ(竜田越え)で歌を残していない。
仮に、伏見から東高野街道を南下し、「竜田越え」のルートを選んだのであれば、とにもかくにも、まずは紅葉を詠むのが自然に思えるのだけれど…。
考えられるのは、”竜田越え”はしていないか、もしくは、古来から歌に詠まれた紅葉の名所では歌を残さずに、敢えて、京の人々に詠まれたことのない物寂しい土地で、自分だけの歌を残そうとした…穿ちすぎとは思うけれど、そんなふうに想像している。
ちなみに藤原道長は、1023年10月27日の「竜田越え」に際し、「鼈瀨山之嵐,紅葉影脆。龍田川之浪,白花聲寒。」と詠んでいるようだ。
(当時、”竜田山”を”亀瀬山”と呼んでいたのだろうか。かつて、大和川の水上交通の難所であった地点に、「亀瀬岩」という特徴ある大きな岩があるというが、今回は大和川に沿ったルートを採らなかったので、確認できていない。)
_________________________________________
(前略)
廿六日,召維時,給御馬。
御法隆寺,先覧東院。
是聖德太子夢殿也。
覧種種寶物。
有御歌云:「大君の王乃,御名をば聞けど御名乎者聞土,未だも見ぬ麻多毛三奴,夢殿迄に夢殿麻天仁如何で來つらむ伊賀手木津覧。」
雖有古今之秀歌,不可出其右。
御法隆寺,先覧東院。
是聖德太子夢殿也。
覧種種寶物。
有御歌云:「大君の王乃,御名をば聞けど御名乎者聞土,未だも見ぬ麻多毛三奴,夢殿迄に夢殿麻天仁如何で來つらむ伊賀手木津覧。」
雖有古今之秀歌,不可出其右。
廿七日,前權少僧都心譽、同永圓,請暇入京。
以智證大師遠忌近也。
指河內國,進發之間,鼈瀨山之嵐,紅葉影脆。龍田川之浪,白花聲寒。
爰於山中假鋪草座,聊供菓子。燒紅葉,煖佳酒。蓋避寒風也。
昏黑御河內國道明寺,國司為職裝束食堂。
帷帳之餝,壯麗云盡。
朝夕之儲,敢不忽諸。
諸陪從南廬太以過分。
廿八日,入攝津國。
午時,御四天王寺,於別當權少僧都定基房,供御膳,覧佛舍利畢。
次於國府大渡下乘御舩。
以智證大師遠忌近也。
指河內國,進發之間,鼈瀨山之嵐,紅葉影脆。龍田川之浪,白花聲寒。
爰於山中假鋪草座,聊供菓子。燒紅葉,煖佳酒。蓋避寒風也。
昏黑御河內國道明寺,國司為職裝束食堂。
帷帳之餝,壯麗云盡。
朝夕之儲,敢不忽諸。
諸陪從南廬太以過分。
廿八日,入攝津國。
午時,御四天王寺,於別當權少僧都定基房,供御膳,覧佛舍利畢。
次於國府大渡下乘御舩。
(後略)
(『扶桑略記』巻二十八 治安三年十月)________________________________________
歌人相模の場合、初瀬参詣の帰路として、大和から再び「竜田越え」を選ぶことはなかったと想像する。
ただし、淀川を経て帰京したのであれば、横大路から北西に進路を採り、いずれかの峠(竹内峠・田尻峠・関屋峠など)を越えて、道長と同じように、「天王寺」(四天王寺)に向かった可能性が高まると夢想している(さらに、「住吉」にも寄り道した可能性もあるだろうか?)。
三室山展望台から見る大和川:
「龍田川」に、紅葉が錦のように流れるとすれば、やはり、ここから大和川へと吹き降ろす北西風に寄るもの?などと想像する。今回は流れのそばに下りることはなかったけれど、次は大和川に沿う道筋、さらにその次は「雁多尾畑」の北側の道を歩きたい…眼下の大和川を眺めながらそう思った。