enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルートを探して:竜田道⑥ ~高向草春の歌~

 おさらいばかりで、なかなか写真のまとめが進まない。
(グダグダ・アレコレ悩み迷うことを整理し、文章化する能力があれば良いのだけれど…。)
 
 気を取り直し、まず、「竜田道」で経由する可能性のある地点(ポイント)について、次のa・b・c・d・e・f を選んでみた。【参考地図:『地図でみる西日本の古代』(平凡社 2009年)】
 
 a:生津(”地蔵堂”付近)、横尾(「松谷御堂」道標付近)を経由
 b:三室山を経由
 c:「松谷光徳寺」を経由
 d:「金山彦神社」を経由
 e:「亀の瀬」、「竹原の井」、「島山(芝山)」など、和歌に詠まれた地点を経由
 f: 青谷遺跡(8c半ば頃の「竹原井頓宮」推定地)付近、近世では「夏目茶屋の渡し」付近で大和川
   を渡河
 
【註】d は、金山彦神社・青谷寺経由でeに合流する道筋。また堅上中学校付近でaへ、あるいは松谷光徳寺付近でbへとつながる道筋ともなる。
   e は、奈良時代から歌に詠まれた地点(推定地)を経由する大和川沿いの道筋。
   f は、「竜田越奈良街道」の道筋。 
 
 そして、歌人相模の初瀬参詣想定ルートが経由する地点は、a・b・cを組み合わせた道筋になると推定している(今回はa→c→bの道筋を歩いたことになる)。
 また、現時点での全くの憶測ではあるけれど、大まかに…平安時代には、eのように大和川沿いに「峠」地区を通過するという道筋は選ばれなくなっていたのではないかと想像している。
 そう感じたのは、次の高向草春の歌を知ったためだ。
 
509 神奈備の 三室の岸や くずるらむ 龍田の川の 水のにごれる
            【『倭漢朗詠集』(新潮社 1983年)-巻下「山水」から引用】
 
 この歌の注釈では、「三室」を「奈良県生駒郡斑鳩町の三室山」と推定されている。
 しかし、この即物的・実写的な表現で「三室の岸や くずるらむ 龍田の川の 水のにごれる」と詠んだ場所は、大阪府柏原市の三室山の下流側…すなわち、f の”青谷遺跡”付近(参考地図で言えば「川畑」付近)では?と夢想している(まだ、”青谷遺跡”の地点を見たこともないのに…)。
 
 そして、今回、「峠」地区の昭和初期の大きな地すべりのことを知ったあと、この509の歌を見て、同じような地すべりが、平安時代にも(509の歌を高向草春が10c前半頃に詠んだものと仮定)、歌に詠まれるほどに度々起きていたのでは?と想像した。そして、その当時、三室山南西~南斜面(「峠」地区)の麓、つまり大和川沿いの道筋を通過することの危険性も感じた。
(ちなみに、『源氏物語』第四十六帖椎本においても、崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し…」と書かれていることを、ネット上の「古典総合研究所」、『倭漢朗詠集』〔新潮社 1983年〕などで初めて知った。)
 このように、高向草春の歌が、11c初めの『拾遺和歌集』(巻第七-389)、『和漢朗詠集』・源氏物語』などで採りあげられていることからも、平安時代(少なくとも10~11c)の龍田川沿いの「峠」地区は、地すべりが起きやすい場所としてイメージされていたのでは?と想像できるように思う。
 
 私の夢想・妄想は果てしないけれども、まずは、aの道筋(これまでに掲載した写真:JR高井田駅から坂道を登り、ブドウ畑や”あべのハルカス”方面を眺望した地点、”地蔵堂”地点)の続きをまとめてみたい。
 
イメージ 1
地蔵堂”の先はゆるやかな坂道:
参考にした『地図でみる西日本の古代』では、この辺りに「生津」・「横尾」の地名が記載されている。
 
イメージ 2
「横尾」付近の分かれ道に立つ「勅願所松谷御堂」の石碑:
右の道は青谷へ下る道、そしてc・bへと通じてゆく。左に進めば、cの松谷光徳寺まで、雁多尾畑の北側を行くことになる。今回は同じ松谷光徳寺に通じるはずの南側の道(右の道)を進んだ。
 
イメージ 3
下り道に入る手前の眺め:
左に開かれた段々畑を見ながら下る道。行き着いた堅上中学校からは、再び、金山媛神社へと急な上り坂となる。のどかな景色だった。