おさらいばかりで、なかなか写真のまとめが進まない。
(グダグダ・アレコレ悩み迷うことを整理し、文章化する能力があれば良いのだけれど…。)
気を取り直し、まず、「竜田道」で経由する可能性のある地点(ポイント)について、次のa・b・c・d・e・f を選んでみた。【参考地図:『地図でみる西日本の古代』(平凡社 2009年)】
a:生津(”地蔵堂”付近)、横尾(「松谷御堂」道標付近)を経由
b:三室山を経由
c:「松谷光徳寺」を経由
d:「金山彦神社」を経由
e:「亀の瀬」、「竹原の井」、「島山(芝山)」など、和歌に詠まれた地点を経由
f: 青谷遺跡(8c半ば頃の「竹原井頓宮」推定地)付近、近世では「夏目茶屋の渡し」付近で大和川
を渡河
【註】d は、金山彦神社・青谷寺経由でeに合流する道筋。また堅上中学校付近でaへ、あるいは松谷光徳寺付近でbへとつながる道筋ともなる。
f は、「竜田越奈良街道」の道筋。
そして、歌人相模の初瀬参詣想定ルートが経由する地点は、a・b・cを組み合わせた道筋になると推定している(今回はa→c→bの道筋を歩いたことになる)。
そう感じたのは、次の高向草春の歌を知ったためだ。
509 神奈備の 三室の岸や くずるらむ 龍田の川の 水のにごれる
【『倭漢朗詠集』(新潮社 1983年)-巻下「山水」から引用】
しかし、この即物的・実写的な表現で「三室の岸や くずるらむ 龍田の川の 水のにごれる」と詠んだ場所は、大阪府柏原市の三室山の下流側…すなわち、f の”青谷遺跡”付近(参考地図で言えば「川畑」付近)では?と夢想している(まだ、”青谷遺跡”の地点を見たこともないのに…)。
そして、今回、「峠」地区の昭和初期の大きな地すべりのことを知ったあと、この509の歌を見て、同じような地すべりが、平安時代にも(509の歌を高向草春が10c前半頃に詠んだものと仮定)、歌に詠まれるほどに度々起きていたのでは?と想像した。そして、その当時、三室山南西~南斜面(「峠」地区)の麓、つまり大和川沿いの道筋を通過することの危険性も感じた。
(ちなみに、『源氏物語』第四十六帖椎本においても、「崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し…」と書かれていることを、ネット上の「古典総合研究所」、『倭漢朗詠集』〔新潮社 1983年〕などで初めて知った。)
このように、高向草春の歌が、11c初めの『拾遺和歌集』(巻第七-389)、『和漢朗詠集』・『源氏物語』などで採りあげられていることからも、平安時代(少なくとも10~11c)の龍田川沿いの「峠」地区は、地すべりが起きやすい場所としてイメージされていたのでは?と想像できるように思う。
”地蔵堂”の先はゆるやかな坂道:
参考にした『地図でみる西日本の古代』では、この辺りに「生津」・「横尾」の地名が記載されている。
「横尾」付近の分かれ道に立つ「勅願所松谷御堂」の石碑:
右の道は青谷へ下る道、そしてc・bへと通じてゆく。左に進めば、cの松谷光徳寺まで、雁多尾畑の北側を行くことになる。今回は同じ松谷光徳寺に通じるはずの南側の道(右の道)を進んだ。
下り道に入る手前の眺め:
左に開かれた段々畑を見ながら下る道。行き着いた堅上中学校からは、再び、金山媛神社へと急な上り坂となる。のどかな景色だった。