おさらいしつつ、ようやく最後のまとめにたどりつく。
まず、今回の旅を経た現時点での妄想のまとめは、次の通り、だ。
まだ、試行錯誤の途中ではあるけれど、「竜田越え」の道筋は、歌人相模にとって、躊躇するほどに険しい山道ではなかった…それだけは確かめることができたように思う。
浄林寺のお地蔵様(三郷町):
旅の終わりまで、何人の地元の方たちに道を尋ねたり、挨拶を交わしたことか。旅のゴール近くで出会ったお地蔵様。
”万葉歌碑(鏡女王)”(三郷町):鏡女王墓にも出かけてみたい…旅の空への憧れは果てしない…。
*歌の解説板から:…『万葉集』 巻8 1419
「神奈備の 岩瀬の杜の 喚子鳥いたくな鳴きそ 吾が恋まさる」
「磐瀬の杜」の石碑(三郷町):
鏡女王の万葉歌碑とともに、JR大和路線の線路脇に立つ。
”喚子鳥が啼く磐瀬の杜”のなかに立つわけではなかった。
*歌の解説板から…『万葉集』巻8 1748
「吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尒莫落」
(吾が行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし)
帰りの電車の時刻も迫るなか、慌しく立ち寄った龍田大社。
歌には「島山」の語があるので、高橋虫麻呂たちは、大和川右岸沿いに大和国・河内国を行き来していたのだろうか。いったい、「三室の岸」は崩れるもの…歌を詠む人々の間に、そのような共通理解があったはず、と私は思うのだけれど、それはいつの時代からのことだろう。
それを確かめようとするなら、図書館に何日も通う必要がありそうだ。そして通って調べたとしても、結論が出るとは限らないのだけれど。
*歌の解説板から…『万葉集』巻9 1751
「島山を い往き廻る 河副の 丘邊の道ゆ 昨日こそ吾が 越え來しか
一夜のみ 宿たりしからに 峰の上の 櫻の花は瀧の瀬ゆ 落ちて流る
君が見む その日までには 山下の風な吹きそと 打越えて 名に負へる社に 風祭せな」
急ぎ足で社前を通り過ぎ、慌てて写真だけを撮り、三郷駅へ。やはり、日帰りの旅はゆとりが足りないようだ。
~最後に花園左大臣家小大進の歌~
「みむろの岸」は、この歌のなかでも、儚いイメージで使われている。しかし、高向草春の歌が、淡々とした実景描写(記録性?のある描写)のように感じられるのとは違って、この歌は、どこまでも内的な思いを比喩的に詠んでいるのだと思う。
(この時代において、実際に「みむろの岸」が、明日にも地すべりによって崩れて、草が生え育つことのない場所であったのかは知る由もない。)
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巻第十七 雑歌中
1131 あす知らぬ みむろの岸の 根無し草 なにあだし世に をひはじめけん
花園左大臣家小大進
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