enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

誰も止めることができない輪転機に励まされる

 6月初旬から続いていた足の痛みが、7月に入って、ようやく薄らぎはじめた。
 階段を昇ることも、こわごわ試せるようになった。
 (全体重を片足にかけることがまだ怖いので、ぎこちない昇り方になってしまう。)

 8日、梅雨の晴れ間を縫って、『新聞記者』が懸かっている隣町の映画館まで出かけることにした。
 電車に乗るというだけで、わくわくした気持ちになった。
(普通に歩けないという非日常を味わったことで、歩けるという日常の味わいは格別なものになった。)

 無事に到着した映画館には、ポップコーン(?)の苦手な甘い匂いもなかった。
 入り口で、機械にバーコードをかざし、eチケットの発券をする。
 (その初めての作業で、早速、失敗していたのだった。そして、機械から吐き出された小さな券を手にした時、小さな疑問符が頭に浮かんでいたことは確かだった。)
 『お客さま控え?…これがチケット? ずいぶんと素っ気ないけれど?』と眺める。
 でも、すぐに『こんなものなのかな?』と思い直して、上の階に進む。
 
 薄暗いホールでしばらく待つと、受付が始まった。
 いそいそと立って、握りしめていた小さな券を係りの方に差し出す。
 「チケットはお持ちではありませんか?」
 「これが下で発券したチケットですけれど…」
 「これと、もう1枚発券されたものがチケットになりますが…」
 「え? これしか出てこなかったような…」
 係りの方は、すぐさま「どうぞこちらへ」と私をデスクに導く。
 デスクには、客席のシート番号図が立てかけてあった。
 「お客さまが予約された席を覚えていらっしゃいますか?」
 「え~と、たぶん、この席???」と指さしてみる。
 (予約メモも持っていたので、どぎまぎしながら確かめる。)
 「その席のチケットが先ほど、下の発券機に残っていましたので…」
 係りの方は、笑顔とともに、私に、さらに小さな券を手渡してくれる。
 
 私のどぎまぎは収まったものの、どこか、狐につままれたような…。
 『変だなぁ…。2枚同時に出てきたのなら、一緒に手に取ったはずなのに…』
 年を取ると、こうして狐につままれることが増える一方なのだ。
 若い頃には問題なくできたはずのことも、なかなかの一仕事になってしまうようなのだ。
 とにかく、ようやく、『新聞記者』の部屋の予約シートにすべりこむ。

 事実は映画よりゲテモノなり…。
 今日、映画を観終わってそう思う。
 この数年間の日本の行政の現実が異様をきわめたことを、映画作品を通して再確認した、というよりはむしろ、この数年間で、政権中枢が描くあざといプロットをもとに次々に現実化された事態が猖獗をきわめたこと、それが映画作品という形で昇華された結果、私たちに今、不思議なカタルシスさえもたらしている…そんなことを思った。
 そして、さらには、この数年の猖獗をきわめた現実を知ってしまった私たちは、この映画作品でひとときのカタルシスを味わって終わってはならない…そういう思いにも至るのだった。


 『新聞記者』のラストシーンは、私たちに闘う覚悟を呼びかけているように感じた。
 『新聞記者』の続編は、私たちが現実で選び取るプロットで作品化される…そう思った。
 私たちが失ったものは何か? 私たちには何が残っているのか? 
 私たちは何を失ってはならないのか? 私たちは何を取り戻さなければならないのか?
 私たちは何をするべきなのか?

 『ペンタゴン・ペーパーズ』の時と同じように、『新聞記者』でも、高速の輪転機のシーンに心臓が高鳴った。
 失うことの覚悟、失わないための覚悟…私にも持てるのだろうか? 
 回転を始めたら誰にも止めることのできない輪転機の圧倒的な勢いに、またしても励まされた。
 覚悟を決めたら、輪転機は走り出す。そして夜明けが来る。 
 
 エンドロールとともに流れていた曲が止むと、暗い客席から拍手が起こった。
 映画を観終わって拍手が起こったのは、私には初めてのことだった。 

7月初旬のネムノキイメージ 1