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私の第三十四夜をつづります。

「カテゴリーで見るのではなく」

 

11日の朝刊を12日夕方になって読み始める。

台風19号が近づいた11日、朝から富戸に出かけ、トンボ帰りをした。

しっかりと雨具の支度をして、治りかけの足で富戸の坂を登りはじめる。
急坂を流れ落ちる雨は”せせらぎ”のような音を立てていた。靴も靴下も直ぐに水浸しになった。

富戸での用事をすませ、午後になって再び同じ坂を下った。
朝と違って、坂の上から、伊豆の海と空の境を見わたせるほどに、雨は小止みになっていた。
秋の林のそこかしこから響いてくる鳥たちの啼き声に、心まで明るんでくる。
ただ、帰りの電車の座席に滑り込んだ頃には、直りかけの足に強張りのような重さを感じた。

平塚に戻ると、気が抜けたように穏やかな曇り空が広がっている。人々の行き来もふだん通りのように見えた。

その夜はとうとう新聞も読まずに、近づきつつある台風の行方を心配しながら眠りについた(1~2時間ごとに目が覚め、降り始めた雨音の気配を確かめたりした)。

11日の朝刊では、「隣人」というインタビューシリーズが始まっていた。

そのなかで、”元徴用工、李春植(イ チュンシク)さんのインタビュー”を読んだという小説家・平野啓一郎さんが語っていた。

「いきなり国家利益の代弁者になって考えるのではなく、まず一人の人間として彼らの境遇を思うことが大切です。小説は、韓国人とか日本人、男とか女というカテゴリーを主人公にはできません。徴用工というカテゴリーで見るのではなく、一人の人間として注目すると、僕たちはいろいろな共感の抱き方ができる」

「カテゴリーで見るのではなく」…確かにそうなのだ…私も、ごく遠い場所から貧弱な目を通じて、「カテゴリーで見る」ことばかりだ…そう思った。
分類しないで見ること、分類しないで考えること、分類しないで語ること…。
私も努力すれば、そうした自分なりのアプローチの道筋をつかめるようになるのだろうか?…いや、もう無理かな?…でも、努力することはできるのでは?…そんなことを思った記事だった。

  


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                 富戸の坂道で見た海(10月11日午後)

 

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                 電車の中から見た根府川の海(10月11日午後)

 

カテゴリーの無い世界…海、空、風…そのままが在る…それだけが在る。
たとえようのない憧れを、私の小さな狭い”日記”というカテゴリーに押し込める…なんと窮屈な営み。