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私の第三十四夜をつづります。

下醍醐から上醍醐へ②

12月16日、東京で学生時代の友人たちと逢った。
その夜、寒気がおさまらず、熱を測ると37度5分あった。その後、38度まで上がり、全身の筋肉痛がひどくなってゆく。結果、まったく寝たきりの2日間を過ごすことになった。
ちょっとした寝返りもままならず、台所で10分と立ち続けていられない痛み(いてもたってもいられない苦痛?)だった。
その苦痛も、3日目あたりから熱とともに弱まっていった。ただ、4日目に再び熱が上がって37度5分に戻った。痰を出そうと、体を折り曲げ激しく咳込むことで、腹筋の痛みだけは最後まで残っていた。

で、喘息の吸入薬が残り少ないこともあり、結局、受診することになった。「その症状から、インフルエンザの可能性も…」と診断された。あの耐えられない筋肉痛が世に言うインフルエンザなのか?と納得がいった。

この秋、思えば、体調がまぁまぁなのを良いことに、ずいぶんと出かけ過ぎた気もした。16日から一週間、鬱々とベッド周りで過ごすなか、元気に上醍醐の山道を登った時間が、ずいぶんと遠い思い出になっていった。

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醍醐寺の境内を流れ落ちる水が、背景の山のなかで細く静かに湧き出る姿を思い描く。一刻も早くその地へ…下醍醐から上醍醐へ…と気がはやった。
ただ、その道のりは、高麗山で言えば、八俵山まで何往復かするほどの気力・体力が必要だった(写真を撮る以外、休み無く登っても、薬師堂まで1時間20分はかかっている)。

途中、階段が続く坂を登りながら、ふだん汗をかかない私も、朝からろくに水分を採っていないことに不安を感じ始めた。しだいに、”醍醐水”の湧き出る地点にたどり着くことだけを考えるようになった。
そして、とうとう目の前に現れた「醍醐水」の大きな文字。しかも、お堂の前には蛇口が、そしてコップまでもが用意されていた。
ごくごくと音を立てて喉を潤すことの喜び、快感。水のありがたさが体じゅうに、一気にしみわたった。”甘露…甘露!”…昼食も採っていなかったけれど、もう元気百倍だった。

薬師堂の前から、眼下に連なる山並みを見渡した時には、その眺望もまた、”甘露”のように体にしみわたった。そして、この高みに堂宇を建てた人々に思いを馳せた。

 

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▲登り口の女人堂近くの「一丁」石、そして上醍醐寺務所近くの「十九丁」石 

 

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「醍醐水」の説明板とお堂

 

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乾ききった喉を潤してくれた「醍醐水」:
お堂の背景にはぽっかりと空が…。かつて、その場所に存在していた准胝観音堂は、2008年8月23日夜半の落雷で全焼したという。ぽっかりと開いた空は、周辺の森林にまで延焼が及んだ結果なのかもしれない。信仰が宿る形そのものが一種の生命体であった場合、その生命体の形を失った空虚さは、時を経ても覆い隠せないもののようだ。

 

薬師堂からの眺め

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薬師堂の説明板とお堂