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私の第三十四夜をつづります。

ミャンマーで ③ ”うねる瞼”に出会う。

 

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”うねる瞼”:スラマニ寺院の壁画(バガン

 

数年前から、鶴見で開かれている仏教美術の講座に参加してきた。
その講座のなかで、先生が何度か指摘した”うねる瞼”・”つりあがる目尻”を持つ仏像や画像の事例が、ずっと心に引っかかっていた。

先生が指摘した一つの典型例が、岩手県・黒石寺の薬師如来坐像(862年)だった。

 

f:id:vgeruda:20200125233328j:plain”うねる瞼”:黒石寺の薬師如来坐像(「みちのくの仏像」展〔東京国立博物館 2015年〕のチケットから)

先生が”うねる瞼”・”つりあがる目尻”という表現について言及した時、「みちのくの仏像」展で初めて出会った黒石寺の薬師如来坐像が、なぜ異様な強い力を発散していたのか、その秘密が分かった気がした。そうか、あの仏様は”うねる瞼”をしていたのか、と。

そして今回、ミャンマーの旅のなかで、”うねる瞼”に再び出会った(黒石寺の仏様のあの眼だ、そう思った)。

旅から戻って、そのバガンの寺院(スラマニ寺院など)の仏像や壁画に表現された”うねる瞼”の源流はどこなのか?が気になって落ち着かない。

同じような”うねる瞼”が、なぜ、9世紀中葉の黒石寺の仏像と、12~19世紀のバガンの寺院の仏像・壁画において表出するのだろう?

(鶴見の講座では、黒石寺の薬師如来坐像の”うねる瞼”に共通する事例として、「金剛薩埵像 頭部 唐・9世紀 敦煌莫高窟14窟」の画像が示され、9世紀の唐の表現が直接的な形で影響した可能性も?との言及があった。
 また、鶴見の講座で配布された資料を、改めて”うねる瞼”という視点で眺め直してみると、興福寺の「木造仏頭」(運慶作 1186年)、神護寺の「僧形八幡神像」(鎌倉時代)、東大寺の「僧形八幡神坐像」(快慶作 1201年)などにも、”うねる瞼”に通じる表現が感じられるのだった。)

日本では、9世紀中葉と12世紀末といった時代に”うねる瞼”の事例があるとして、それは、どこかでミャンマーでの”うねる眼”に結びつくものなのだろうか、まったく関係の無いものなのだろうか?

それに、昔、TV番組のなかで見たネパールの仏塔の外壁に描かれた大きな眼も、今思えば”うねる瞼”だった。あの表現はいつ頃から定着したものなのだろう?

当分、こうして、ああでもない、こうでもないと、”うねる瞼”の謎にとらわれ続けるのだ。

ミャンマーで出会った”うねる瞼”…私一人だけが抱える謎…がまた増えた…。

 

【スラマニ寺院で出会った”うねる瞼”】

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*壁画のそれぞれの制作年代については情報が少なく、つかみきれなかった(寺院の年代としては12~19世紀とかなりの時間幅をもつが、画期は12世紀・18世紀頃にあるのだろうか?)。
ただ、下段左の白・緑の色調の対比が美しい絵は、耳の形も曲線的で、やや古い時期のような印象を持った。

なお、同じように古い時期の制作?と感じられた壁画には、次のようなものもあった。

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【上:悪魔?と蛇?と仏様、中:象、下左:漁?のようす 下右:下左図左半部の拡大】

 

また、スラマニ寺院だけでなく、次の寺院でも、”うねる瞼”の像に出会った。 

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【左:ダマヤンジー寺院(12世紀建立) 右:ティーローミンロー寺院(13世紀建立)
*ともに、仏像の制作年代は不明。

 

≪補記≫
このように、それぞれの仏像・壁画の表情は個性にあふれ、表現様式は混沌としているように見える。それでいて、上瞼が波打ち、半眼として描かれている点は共通している。
一方、黒石寺の薬師如来坐像の表情は厳しく近寄りがたい点で、ミャンマーのこれらの造形表現とは一線を画しているし、影響が推定される9世紀の唐の画像のやわらかで物憂げな印象とも異質だ。
やはり、黒石寺の事例は、鶴見の講座の先生が想定されているように、「厳しい表情は、神像の表現との関連」や「”神”と”仏”の交渉の産物であった可能性」を考えるべきものであるのだろう。

ミャンマーで”うねる瞼”と出会って、思わず『さまざまな”うねる瞼について、その源流をさかのぼれば、ひとところに行き着くのでは?』と妄想をめぐらせる時間をもったことは、鶴見の講座で、先生の専門的かつユニークな視点に接することができたから…そう思う。)