enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

カタルシスの無い『パラサイト』

 

昨日は温かな陽射しに誘われ、散歩に出た。その帰り道で映画館に寄った。
 (本当は、封切りになった韓国映画『パラサイト』を観るために散歩に出たのだ。)

映画を観終えて、頭がふらつくように感じた。

私におよそ想像できていたのは、描かれる”貧困”のディテールの度合いぐらいだったと思う。
で、貧困なのは私の想像力だった。

物語の展開は、眼を覆うほどに…実際に、暗闇のなかで、思わず両手で眼を覆ってしまったほどに…予定調和的な道筋を避け続け、”キャタストロフィー”へと暴走していった。
(物語の展開に動揺した気持ちに振り回されないよう、あえて映画の虚構性を意識してみる。それには、カタルシス、ディテール、キャタストロフィーといった片仮名言葉で書き記すほうがふさわしいように感じている。果たして、この物語の展開について、韓国での観客の受けとめ方はどうだったのか?と気になりつつ。)

そして、入れ子状(?)のパラサイトの仕掛けが暴かれてから始まる”貧困と貧困の生存闘争”の過激さ、人々のそれぞれが”貧困臭”か”富裕臭”かを自然に漂わせていることを感じ取る長男の繊細さ(現実社会にそうしたものがあると感じるか、を観客は問われる)、自らをパラサイトの最下層に閉塞させて生きるしかない男の絶望、”確かな信仰や倫理なるもの”の不在(”山水景石”を人々の生存欲の象徴として見た時、その”より良い扱い方”へと導くものが”信仰や倫理なるもの”であるとすれば…)が、カタルシスへの道をことごとく塞いでいるのだった。

つまり、観終わっても”息苦しい”。

”長女”はなぜ? ”お父さん”はなぜ? と片付けようがない「?」を抱えて現実空間に戻るしかない。
(田中裕子さんに似た、毒蝮三太夫さんに似た、個性的で親近感のある役者さんの顔が浮かんでくる。不思議なことに、”お母さん”は何からも自由で、葛藤がないように思える。彼女だけが、信仰や倫理からも自由で生存欲のままに生きることが許される存在なのか?…強いということなのか?…。)

エンディングで流れる曲は、どこか、S&Gの「I Am A Rock (アイ・アム・ア・ロック) 」と重なる響きがあった。その響きと乾いた声が、映画の重い空気をふっと薄めてくれるように感じた。

 

 

f:id:vgeruda:20200202112913j:plainミャンマーでの日没