enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

巣ごもりのなかでさまよう。

私が巣ごもりしている部屋の壁に、小さなカレンダー(『やむぬはぎーねー うみんはぎーん 山がはげると海もはげる 』)が掛かっている。

そのカレンダーの4月の写真は、春らしい光にあふれていて、見るたびに気持ちが明るくなる。

辺野古の近くの浜辺だろうか。
写真の解説には「浜下りの日。旧暦3月3日、潮の引いたリーフで貝やたこを捕っていた。…」とある。

 

今や、日がな、食卓上のパソコンや新聞を眺め暮らすだけの私にとって、カレンダーというものは、整然とした数字の行列にしか過ぎなくなってしまった。
それでも、その写真を見れば、はるか南の島々、美しい海や空へと心誘われてゆく。

そしてまた、日々の新聞のなかを覗きこめば、紙面よりずっと広々とした空間へと誘い出してくれる文章に出会ったりもする。

今朝の新聞では「福岡伸一 動的平衡 ウイルスという存在」がそうだった。
その小さな文章空間を通り抜けると、今も世界じゅうの人々が必死に忌避している新型コロナウイルスの恐ろし気な顔が、くるりと別の顔をこちらに向けるようになっている。小さくても広がりのある不思議な空間。その空間には、文字たちが行儀よく行列しているだけなのに。

パソコンのなかのさまざまな情報も、私のよどんだ脳味噌をかきまわしてくれる。

昨日読んだ『これで「軽症」と言うのか。新型コロナ感染で入院中、渡辺一誠さんの手記』においても、私の脳味噌は、見知らぬ他者の棲む異空間に入り込み、夢遊病患者のように(他者の夢を味わうように)さまよったのだった。

このところ、読書に一層身が入らなくなった私の脳味噌は、あてどない自分の身体や現実を離れ、ネット空間にさまよい出ることで、かすかに点滅を続けることができている。

 

ベランダの植木鉢で生きるスミレたち

f:id:vgeruda:20200403165430j:plain