enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「傘は要らない」

 

とうとう6月。そして朝から雨。

ネットや新聞やTVからあふれる世界と日本のできごとが、朝からの雨で降り込められ、自分の内側に向かってくる。それらのできごとから生まれた痛みが、湿度をもって、こちらへと伝わってくる。

まず、ネットで観た動画に胸が苦しくなった。それは、アメリカの黒人が警察官からすさまじい暴力を受けている姿を、いくつもいくつも集めたものだった。そこに写る黒人の男性も女性も、ほとんど防御の姿勢をとるだけだった。アメリカ社会のなかで学ばせられたようなその姿が悲しかった。

また、午後になって目にしたのは、40年前の韓国の光州事件をめぐる映画だった。国家がためらいなく市民に銃口を向けた歴史的現実に、眼の奥が収縮するような痛みを感じ、涙が止まらなかった。

自由や社会的公正さというものが、自分の日常や生命と引き換えにすることで手に入れるものなのだとしたら、私はまだそれを手に入れてないのだと考えないわけにはいかなかった。何だか、頭がぼんやりと重くなった気がした。

夜になって、ようやく、いつものような感覚に戻っていった。
(その間、なぜか、1973年の「金大中事件」の舞台となった飯田橋のホテルのことや、1970年代後半にはまだ大掛かりなストライキがあったことや、さらには中曽根内閣がおし進めた国鉄民営化のことなど、当時の記憶がとりとめなく断片的に湧き上がってくるのだった。きっと、午後に観た映画のなかで描かれた1980年の韓国の姿から、当時の日本の姿について思い出そうとしたからなのだった。)

それにしても、と思う。
1980年前後の日本の現実。1980年5月の広州の現実。2020年5月のミネアポリスの現実。それらに比べ、私の2020年今の現実の何と希薄なことだろうと。

 

f:id:vgeruda:20200602005918j:plain雨のあとで(6月1日 人魚姫の公園)