コロナ禍と長雨が続く徒然なる日々。
遠のいていた歌人相模の世界をふと思い出し、本当に久しぶりに『相模集』を開いた。
この数日のじっとりと湿った気分が、一千年前に”朽たし果てつる”と歌った歌人相模の言葉と、ぴったり重なるように感じたからだった。
『相模集全釈』(風間書房 1991)から_______________
軒の玉水かず知らぬまでつれづれなるに、「いみじきわざかな、石田(いした)のかたにも
すべきわざのあるに」とおのが心々に、しづのをの言ふかひなき声にあつかふも耳とまりて
78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる 頃の袖かも
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この歌は、「石田(いしだ)」という地名にこだわりを持ち続けている私にとって、ずっと特別な存在のままとなっている。
(eonaiehon 2016-02-21 【『相模集』のなかの「堅田(かただ)」と「石田(いしだ)」のこと】など、こだわりの強さとは裏腹に、その後、何の進展もないままだけれど。)
そして、『コロナ禍と長雨で、我が身も”朽たし果てつる”ことだなぁ…』と、この78の歌などをしみじみ眺めるうちに、旧暦六月に歌われた別の歌が目に留まった。
453 かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし
一読しても、歌の背景が分からないのが気になった。
『相模集全釈』の解説文にも、「犬養廉氏も、歌意に判然としないところもあるとしながら、公資が相模のもとを去って行ったことを訴える歌としておられる。」とあった。
『そうなのか…判然としないのか…』と思った。
この453の歌は、「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」として、248と349の歌を経て、一連の歌として作られたものだ。
それならば、それら一連の3首を読み直してみようと思った(実に”朽たし果てつる”ほどに徒然な日々から、少しでも抜け出したいのだった)。
旧暦であれば六月であったと思われる日の夕月(平塚海岸で)