enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」②

【248・349・453の3首】

『相模集全釈』(風間書房 1991)から_____________________


~中夏~
248  したにのみ くゆる我が身は かやり火の 煙ばかりを こととやは見し

(悶々とするばかりで、心がふさいで晴れない我が身は、蚊遣火のくすぶる煙だけを関係のないものと思っていたでしょうか。私と同じに思われました。)


~中夏~
349  したにのみ くゆる思ひは かやり火の 煙をよそに 思はざらなむ

(心の中の悩みを、ひそかに悔いる思いは、くすぶる蚊遣火の煙を無縁のものと思わないでほしい。両者は同じ「くゆる火」なのだから。)


~六月~
453  かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし

(私の胸のうちにくすぶる恋の火も、夫の愛情によって防いでほしいと思うのに、それどころか去年の夏、あの人は立ちのぼる蚊遣火の煙とともに、私のもとから立ち去ってしまったのですよ。)
_______________________________________
走湯権現奉納百首及びその贈答歌」(222~524:欠首・重複あり。序歌3首・跋歌2首を含む)は、
a:歌人相模の奉納歌(222~319)
b:権現(僧)からの返し(321~421)
c:歌人相模の更なる奉納歌(425~523)
の三つの歌群から成り立つ。
また、それぞれが、20部立て・各5首(計100首)という共通形式で統一され(欠首・重複あり)、a(正月に奉納)→b(その年の4月15日に返しが届く)→c(翌年の夏の帰京前に再び奉納)という時間軸のなかでまとめられている。

つまり、a・b・Cの歌群が、”時間の流れ”として連なると同時に、各100首のそれぞれも、個別にa ⇔ b ⇔ cという”贈答歌の流れ”として連なることになる。
そして、その”贈答歌の流れ”には、起(a) ⇔ 承(b) ⇔ 転(c)という有機的な捻りが加わるとともに、bの歌群の作者を走湯権現(僧)と位置づけることで、聖俗集合?の物語世界を織りなすような様相を見せる。
こうした個人歌集の枠を超えるような構成のなかで、248・349・453の3首は、それぞれ「248(1024年正月まで)」→「349(1024年4月15日まで)」→「453(1025年夏の帰京前まで)」の”時間の流れ”と、「248 ⇔ 349 ⇔ 453」の”贈答歌の流れ”に沿うものであり、「起(248) ⇔ 承(349) ⇔ 転(453)」の捻りを加えながら有機的に結びつき、一体化している。
このような「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」の特異な世界が織りなされた場所が、1020年代の東国の片隅(平塚?)であったのかと思うと、一千年後の平塚で暮らす市民として少し複雑な気持ちになる。
相模国府とは、歌人相模にとってどのような場所であったのだろうか? 歌人相模は、その晩年、相模国府で過ごした4年間について、ほろ苦くも懐かしく思い出してくれただろうか?)

 

 以上のような復習をしながら、
「453 かやり火も ふせげと思ふを こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」
の歌で、今回改めて気になったのが、下の句「こぞの夏 煙のなかに たちぞさりにし」だった。
これら一連の言葉に引っ掛かりを感じた末にたどり着いた妄想的結論を示すと、次のようなものになる。

 

「たちぞさりにし」の語に、「館(たち)ぞ去りにし」の意味が含まれるのではないか?

 もし、このような”掛詞”的な想定が許されるならば、

「火」・「煙」についても、「(館の)火災」**のイメージを重ねているように感じられる。
(ただし、「火」・「煙」の語に、作者の個人的体験としての「(館の)火災」のイメージを重ねることは、あまりにも作者の個人的背景に踏み込んだうがった読み方なのかもしれない。”国司館火災”の時期・事情を前提としなければ、読み取りようがない解釈なのだから…。)

(以上の言い訳をふまえた解釈として)453の歌意は、
「私の胸のうちにくすぶる恋の火も、館の火災も、防いでほしいと思うのに、それどころか去年の夏、あの人は立ちのぼる蚊遣火の煙と、立ちのぼる館の火災の煙とともに、私のもとから立ち去ってしまったのですよ。」となる。

さらには、「館国司館と想定)」の火災の時期は「去年の夏」に限定されることになる。


**
相模国国司の火災については、これまでもあれこれと思い巡らしてきた。
(enonaiehon 2013-09-05 【相模集-由無言5 「さてそのとし館の焼けにしかば」と「焼け野の野べのつぼすみれ」】など。

 

ここで改めて、「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」の中で記された次の詞書(歌群bとcの間に位置する)を掲げてみる。

 

『相模集全釈』(風間書房 1991)から_____________________

さて その年 館(たち)の焼けにしかば、「かかる事の さうし〔註:冊子〕して、必ずかかる事なむある。穢らはしきほどにおのづから」と人の言ひしかば、あやしく本意(ほい)なくて、上(のぼ)るべきほど近くなりて例の僧にやりし。これよりも序のやうなることあれど、さかしう にくければ書かず。
______________________________________

この詞書は、「館国司館と想定)」の火災が起きたのは、「その年」(歌群bとcの間の詞書ということから、1024年4月後半~1024年末までと想定)であることを示している。
そして、453の歌の下の句について、「去年の夏(館の火災の)煙のなかに 館ぞ去りにし」と解釈するのであれば、国司館の火災時期を「1024年の夏」と特定できることになる。

それにしても、453の「かやり火」の歌において、歌人相模は、なぜ「夏」を具体的に「こぞの夏」と限定したのだろうか? 453の歌について、研究者が「歌意に判然としないところもある」とする理由も、その下の句の唐突さにあるのではないか?

今回、その答えとして私が思いついたのは、詞書にも記された”国司館火災”という、作者にとって忘れがたい出来事だった。

私は、歌人相模が、248・349の歌詞(「くゆる我が身」・「くゆる思ひ」・「かやり火」・「煙」)に通底する恋心…単なる仮想なのか、現実に定頼などを想定しているのかは不明…の流れから大きく転じて、”夫・公資への恨みや嫉妬心”をくすぶらせるかのような下の句を詠んだ背景として、349の権現(僧)からの返歌に対する反発だけでなく、”去年の夏”に起きた”国司館火災”に際しての夫・公資の冷たい振る舞いの記憶が、思わず甦ったためではないだろうか?と想像している。
(夫・公資が赴任先の相模国で愛人をなし、妻・相模をないがしろにしている様子が、230・433の歌***からもうかがえる。大江公資は、1024年夏の国司館火災をきっかけに、完全に妻・相模のもとを離れて、愛人宅を遍歴する生活を始めたのではないだろうか?)

 

***
233 若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな
433 もえまさる 焼け野の野べの つぼすみれ 摘む人絶えず ありとこそ聞け 

 

以上、「館(たち)」という語句についてのこだわりが再燃し、新たな妄想を巡らすこととなった。
そんな妄想でも、相模国下向後の歌人相模の満たされぬ思い・嘆き、願いごとを歌群として成立・昇華させた「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」には、まだまだ妄想をふくらませる余地が残されていることが分かった。
虚しく過ぎるコロナ禍と長雨の時間も、物想う(妄想)時間に変えて、しのいでゆくことができれば嬉しい。