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私の第三十四夜をつづります。

相模国司 菅野真道

 

今夏、『渡来人と帰化人』(田中史生 KADOKAWA 2019年)を読んだ。
これまで、”渡来人”という用語に抱くイメージは、エキゾチックで謎めいた、そして捉えどころのないものだった。

ただ、”相模国府”の歴史を学んでいた頃は、その”渡来人”の足跡”というものが、”相模国府”の歴史・遺跡のどこかに残っていたりするだろうか? そんな問いかけ・関心を持っていた。

そのなかで今も記憶しているのは、9世紀初め延暦24年)に登場する”百済教法”桓武天皇女御。大住郡に田2町を与えられる)や、9世紀前半(弘仁11~13年)に相模介として、また9世紀半ば(承和9年)に相模守として再登場する”百済勝義”といった特徴的な名前だ(その名が”百済”であることは、「百済観音像」との縁を感じさせ、ことに謎めいて響いたのだ)

また、”百済王”を”クダラノコニキシ”と読むこと、桓武天皇の母”高野新笠”も百済系”渡来人”の系譜に連なること(このことは、1998年に天皇…現在の上皇…の会見のなかで提示されたことによって、私の頭により強く刻み込まれた)、さらに、桓武天皇女御”百済教法”に与えられた”大住郡の田2町はどこなのか?という疑問や、相模国司”百済勝義”は承和9年に前任国司”源 融”とどのように係わりを持ったのだろうか?という妄想的疑問などが、頭の片隅に残り続けていた。

で、今回、そうした記憶を残しながら『渡来人と帰化人』を読み進めていった。

そして「Ⅵ 渡来系氏族の変質と「帰化」の転換」(「2 永遠なる帰化人」‐「中華国日本の百済王」)のなかで言及されている「菅野真道」の名前に引っかかりを覚えた。

その名は相模国司として見覚えがあったように感じ、『大磯町史1 資料編 古代・中世・近世(1) 』や『日本史総覧2』・『国司補任』などを確かめると、”菅野真道”は延暦20年に相模守の任にあったことが分かった。

しかし、その菅野真道が百済を出自とする渡来系氏族」(『渡来人と帰化人』p.263)であることは、今回初めて知った(ちなみに、延暦14~15年・18年の相模守”和〔ヤマト〕 家麻呂”も百済系渡来氏族であることも、今回改めて気づかされた)。

また、この菅野真道について『渡来人と帰化人』(p.263)のなかでは、
「正統な百済王族出身と認められることで出身氏族のランクを上昇させたい真道は、桓武王権における百済王氏の血統保証機能【註】をうまく利用したのである。桓武を中華の皇帝と讃えた真道は、百済王氏の王権における存在意義を誰よりもよく理解した人物であったといえるだろう。」

【註桓武天皇が、母方氏族の和氏が百済王族に連なると主張する「和氏譜」に基づき、延暦9年百済王氏を「朕の外戚」と宣言し、その血統を保証しようとしたこと(『渡来人と帰化人』p.261をもとに要約)、を指す

と書かれている。このような新鮮な視点を加えつつ、相模国の歴史や東国の国司たちを見直した時、また新たな切り口も得られるように感じた。

はたして、8世紀末から9世紀半ばにかけて相模国司となった百済系渡来氏族の”和 家麻呂”や”菅野真道”や”百済勝義”たちが、実際に平塚の地に足を踏み入れたのかどうかは分からない。また、「徳政相論」で示された菅野真道の考え方が相模国司としての職務のなかでどう影響したのか・しなかったのか、知る由もない。

しかし、この『渡来人と帰化人』は、その著作の意図(背表紙には、
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歴史の教科書は「帰化人」を「渡来人」と言い換えて、彼らを古代「日本」への移住者・定住者と説明してきた。しかしそれでは、古代社会の実像から大きくかけ離れてしまう。古代史料に即して「渡来」と「帰化」」の意味や違いを捉え直し、渡来人を〈移住者〉と再定義。〈移動〉をキーワードに、現代「日本」と繋がりつつも、異質で多様な古代の「倭」「日本」の姿、国際社会と密接に結びついて動く古代列島社会の姿を浮き彫りにする。
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と記されている)とはまた別のところで、私に新たな視点と励みを与えてくれた。猛暑のなかの読書で予想外の情報を得て、久しぶりに相模国司について、思いを巡らせることができたのが嬉しい。