落葉の色採り
11月25日…夕方になってから街に出る。
イチョウ並木の落葉が、歩道際に黄金色の吹き溜まりをつくっている。
25日?…そうか…三島由紀夫のことをすっかり忘れていた自分に驚く。
そして、怖いほどに薄れゆくものは、三島由紀夫についての記憶に限らないのだった。
この頃では、”かつてあったはずの自分という存在の形”…私が唯一、最も良く見知っていたはずの存在の形が、フワフワとしたもの、ぼんやりしたものになってきている。
コロナ禍のなか、明らかに老衰しつつある心身。そして、日々、希薄になってゆく”自分という存在の形”。
アイデンティティなるものを意識化し維持するための刺激も、それを求めようとする気力も見失い、半覚半睡・幽体離脱の態で、白濁した時間だけが沈殿してゆくようなのだ。
それでも、非日常の旅へと抜け出せば、いっとき、私が私であったことを思い出すような時間…かつてあった自分の形をなぞって確かめる機会に出会ったりすることもあるのだ。
今、旅から日常に戻り、秋の八幡平の写真を眺めていると、現時点の現実との乖離に、疼きに似たものを感じる。
2020年秋…コロナ感染者数の増加が国会論戦の焦点になっている今、極めて内向きな旅の時空間で味わった束の間の生命感の感触について、名残り惜しくも、また疚しくも思い起こしている。
(自分が自分でありたいと志向すること…それだけにかまけること…はどこまで許されるのだろうか?)
【八幡平の高原で:10月15日の写真から】
ツタウルシの黄葉(紅葉?) くす玉のようなツメクサの花
今は盛り…キャラメル色のカツラ やがてすがれてゆく緋色
秋の「七滝」
小さなキノコたち 歌う樹?
~「森の大橋」から望む~
漣のような木肌と紅葉 蝋燭の炎のような…
変身したコバイケイソウ