enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社男神立像の爪先のこと…再び懲りない妄想。

 

2020年暮れ…ずいぶんと久しぶりに、妄想の扉が開いた。

その扉は、次のデジタル記事がきっかけで開いた。

 

 

上掲の記事の写真を拡大すると、横たわる雷神像写真の風神・雷神像は、山形県大江町の雷神社から町に寄贈されたものというの爪先が眼に飛び込んできた。

その鈎のように湾曲した異様な3本爪…。

これまで、風神・雷神の造形は琳派の屏風絵などで見知るだけで、その足元や爪先の形に注目することは無かった。

『3本爪…?』

妄想の扉は開いてしまった。

雷神が3本爪として造形されることが、雷神の図像の決まり事の一つであるのならば、伊豆山神社男神立像が履く沓の爪先の造形も、沓としてのデザイン以前に、何かしらの図像としての決まり事を仄めかしたものなのでは…?

無理筋と思いつつも、妄想を進めてしまう。
(大晦日もお正月もそっちの ”褻” 暮らしの私にとって、こんな時ほど妄想世界への逃避行はもってこいなのだ。)

ネット上で、雷神の彫刻像の3本爪について検索すると、どうも、雷神の彫刻像の足爪は2本、あるいは3本として表現されるものが多いようだった。
琳派の屏風図のように、人間の足指と同じような形に描かれる場合もあった。)

また雷神から想起される龍神もまた、3本爪の図像として描かれるものがあると分かった。
(むしろ、伊豆山神社の成り立ちを思えば、雷神というより、龍神との係りへと、妄想が深まってゆく。)

伊豆山神社男神立像は、龍神としての象徴を担うために、あのような形の沓を履いているのではないか?』

こうして、お正月を迎える大晦日の用事を後回しにして、再び性懲りもなく、”伊豆山神社男神立像の爪先の造形は、龍神の化身としての象徴か?≫などと、素人の妄想を蒸し返したのだった。

果たして、伊豆山神社男神立像の「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓」(伊豆山神社木造男神立像考」鷲塚泰光の下には、雷神由来の、あるいは龍神由来の”異様な湾曲した3本爪”が隠れているのだろうか。

 

 

 

 

 

【 過去の enonaiehon の記事から】

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① ”伊豆山神社男神立像”(2012年7月26日 enonaiehon )から

 今春の伊豆山神社参詣から3か月が過ぎた。
 昨日、京都での修復を終えて熱海に里帰りした神像を、ようやく目の当たりにすることができた。美術館展示室の奥まった一部屋に、この一体だけが展示されている。神像の重量感、生々しい存在感に見合う空間だ。
 
 初めて対面して真っ先に感じたのは、時代を越えた強い個性と存在感だ。造形としては11世紀当時に生きた人間そのものを写したかのように見える。異質な他者として自己完結しているようで、とりつくしまがない。それでいて、薄く閉じられた眼は、貴族的な超越感とともに、気まぐれな興味、欲望を隠しているようにも感じられる。
 
 また、歌人相模が走湯権現参詣を果たした時点で、このような神像は無かったはずだ…と感じた。なぜなら、このように圧倒的な存在感を放つ神像を拝してのち、権現僧の返歌百首に対し、歌人相模が、再び切って返すような百首を詠むとは思えないからだ。
 そう感じる一方で、歌人相模の煩悩に対して、この神像が権現僧の形、人間の形を借りて百首を詠んだとしても不思議がない…そのような妄想もよぎる。つまり、走湯百首歌群の世界は、この写実的な神像を眼にした歌人相模が、神像を擬人化することでつくりあげた、虚構の枠組みの中での文学世界だったのではないかと。
 
 4月から待ちに待ったこの日、神像を実際に見ることで何かが見えてくるのではないか、そんな期待があった。しかし、ただ頭の中で歌人相模の道を行きつ戻りつしただけで、”11世紀の伊豆国で、なぜこのような神像が祀られたのか”という疑問は残ったままだ。

(この神像の造形について”…唯一異形と思えるのは、足の爪が3本であること。仮に履物の形としても特異であり、また裸足であるというのも頭巾・朝服の出で立ちとは不釣合いに思える。神としての属性が3つの足爪として示されたのだろうか。

 【補記:その後、『三浦古文化』第30号(1981年)所載「伊豆山神社木造男神立像考」(鷲塚泰光)のなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」とあり、「沓」であることが分かった。”3つの足爪”は素人の妄想となった。】 

 

② ”伊豆山神社男神立像」の履物”(2016年12月19日 enonaiehon )から


 2012年7月、2016年2月と、伊豆山神社の「男神立像」を間近に見ては、歌人相模との係わりについて妄想を巡らしてきた。
 そして、研究者の方々の知見に接することよって、自分の無知と勘違いに気づかされてきた。それでもなお、この「男神立像」に対する興味はいまだ尾を引き続けている。
 その「男神立像」について、現時点で思い巡らしていることを書き留めておこうと思う。何かをきっかけに、その謎の一端がほどける時が来ることを期待しつつ。

 

伊豆山神社男神立像」の履物~

しかし、その後、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も 手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」(鷲塚泰光 「伊豆山神社木造男神立像考」 : 『三浦古文化』 第30号 1981年)という論考によって、自分の無知(大いなる…)を知ることになったのだった。 

 そして、その「沓」と似通う他の作例を知りたいと思ってきた。なぜなら、同じような作例の制作年代が分かれば、伊豆山神社男神立像」について研究者の方が新たに提示された制作年代…「平安時代(10世紀)」…を素直に(?)納得できるように感じたからだった。
 つまり、伊豆山神社男神立像」と同様の履物表現の神仏像の制作年代の多くが10世紀代に集中するのであれば、「男神立像」の年代も10世紀の可能性が高いのかもしれないと。
 そして、ようやく次のような作例を一つだけ、見つけることができた。

 

イメージ 2
鞍馬寺「吉祥天立像」の履物
( 『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕 に
掲載された全身像の足元を切り取り加工したものです。)

 

 ただ、この作例鞍馬寺「吉祥天立像」)については、「像内納入品の年紀から、大治2年(1127)の作」(『週刊原寸大 日本の仏像 21』 〔講談社 2007年〕)とされ、10世紀の作例とはならなかった。
 果たして、履物の表現の違いによって、制作年代をある程度類推できるものなのかどうか…。徒労に終わることを予感しつつ、今後も他の作例を探し、その制作年代を確かめることができればと思う。

補足:
 中国(唐代)の官服について調べるなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現」よりは、かなり複雑で装飾的なデザインの履物例がいくつかあった。
 その一つの輪郭線をトレースしてみた。こうしたデザインを簡素化すると、伊豆山神社男神立像」や鞍馬寺「吉祥天立像」の履物になるだろうか。

 

イメージ 3

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