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私の第三十四夜をつづります。

潜んでいたものが。

f:id:vgeruda:20210211140123j:plain夕方のオキザリス(2月9日 人魚姫の公園で)
 

このところ、南のベランダでは、植木鉢が並んで日光浴する時間が長くなった。
私も、こんなふうに、屈託なく季節を楽しみたい…。

しかし、人々がコロナ禍以前のように暮らし、それぞれの活力を取り戻し、コロナ禍の時代を回顧できるようになるのは、ずっとずっと先のことのようだ。

諦めと覚悟、そして希望…。

 

昨年来、心も身体もはっきりと衰えつつあるなかで、今年の1月半ば、顔じゅうに噴き出した酷いヘルペス症状に驚くことになった。今、我が身を振り返って思う。

心と身体の衰えの果てに、その劣化した存在の奥に潜んでいた”病むもの”が、忌むべき膿の形となって一気に噴出してくるのだな、と。そして、眼をそむけたくなるような”膿”はずっと、私の存在の中にあったのだな、と。

このことは、突然のコロナ禍によって、私たちの社会の奥底に長らく潜んでいたものが炙り出され、眼に見える形となって人々の眼にさらされ、否応なく人々の認識の変容を迫っていることと、少し似ている気がする。

 

さて、私という一個体の「パンドラの箱」の中には、ごくごくささやかな”希望”は残っているのだろうか。

ベランダの植木鉢の中には、淡々とした”希望”が残っていそうに見える。

そして、人々の社会というものが、その深部に潜んでいた禍の発現に戸惑いつつも、その葛藤に拮抗するような多様な”希望”の芽を、新たに次々と生み続けてゆくことを願わないではいられない。

そう思うことが、私が抱く”希望”なのかもしれない。

 

f:id:vgeruda:20210211140135j:plain空一面のウロコ雲(2月10日) :
夕方、外に出ると、どこまでもどこまでも、空一面にウロコ雲が広がっていた。不思議な空だった。その後、用事が済んで、再び空を見上げた時には、あのウロコ雲はどこにも見当たらず、軽やかな水色の空に小さな白い雲が一つ二つ浮かぶばかり。あの天上を覆いつくしていたウロコ雲はどこに、どのように消えていったのだろう?