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私の第三十四夜をつづります。

稲荷前A遺跡第4地点~諏訪前B遺跡の調査~高林寺遺跡のこと①

 

先日、本を借りに図書館へ行き、久しぶりに参考室に立ち寄った。
何か新しい調査報告書は出ているだろうか?と書棚を眺める。
稲荷前A遺跡-第4地点-』(2018年 平塚市教育委員会)が目についた。

以前、すでに手に取ったことがあるのか、初めて見るのか、覚束ない(我ながら困ったことだと思う)。

とりあえず「総括」を読んでみた。

今回、竪穴住居址が19軒も確認されていること、しかも、歌人相模に係る年代…11世紀代の竪穴住居址が3軒含まれていることを知り、意外に思った。

そこで、第4地点の竪穴住居址軒数とその時期を大まかにまとめてみた。
(報告書の詳しい年代観をもとに、便宜的に「●世紀前半」と「●世紀後半」とに振り分け直したが、「●c末~●c初頭」や「●c中葉」は振り分けないこととする)。
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≪第4地点の竪穴住居址軒数≫

7c後半     4     
7c末~8c初頭  1
8c前半     2
8c後半     3
  *
9c後半     2
10c前半     4
11c前半     3 

まず興味を引いたのが11c前半の3軒であり、次には9c前半の空白期だった。
ちなみに、稲荷前A遺跡第1・第2・第3地点の調査結果でも、9c前半が竪穴住居址の空白期となっている。
(ただし、『平塚市内出土の墨書・刻書土器』〔2001年 平塚市博物館〕によれば、稲荷前A遺跡第2地点の試掘調査で、「甲斐型土師器坏」〔底径約7cm〕が「9c第1四半期」とされている。
また、『湘南新道関連遺跡Ⅳ』〔2009年 財団法人かながわ考古学財団〕
によれば、
「国厨墨書土器は、南西に750m程離れた稲荷前A遺跡で6点が出土するが、時期は8世紀後半~9世紀初頭までとされる(1993明石)。時期的に湘南新道関連遺跡の国厨墨書土器は、稲荷前A遺跡に続く時代の遺物として理解され、出土量を鑑みても興味深いものである。」
**
とあり、この「9世紀初頭」に相当するのが、先の稲荷前A遺跡第2地点の「甲斐型土師器坏」であるように思われる。)
 

国府域では、竪穴住居址軒数のピークが9c前半か9c後半にある遺跡が多いなかで、稲荷前A遺跡では9c前半が空白期となっている。
**湘南新道関連遺跡の国厨墨書土器
 ・「国厨」墨書土器:須恵器坏〔9c前葉?〕1点
 ・「国厨」墨書土器:須恵器坏〔9c前半〕1点
「墨書土器は、稲荷前A遺跡に続く時代の遺物として理解され、出土量を鑑みても興味深いものである。」とあるように、国庁建物が機能した時期(①前身建物:8c初頭~ ②初期建物:8c中葉~ ③建替建物:8c後葉~9c前葉終焉、もしくは8c後葉で終焉か?)をふまえつつ、その消長と稲荷前A遺跡の位置づけを考え併せてゆく必要があるのだろう。

なお、稲荷前A遺跡で検出された掘立柱建物の概略をまとめると、次のようになる。
 (まとめる際に『論叢 古代相模』(2005年 相模の古代を考える会)を参考にさせていただいた。)

第1地点:SB01 8c前半(2~x3間 東西棟 NE80° 側柱 部分布掘)
 ・『平塚市史 11下 別編考古 (2) 』では「7c末」?
 ・第1地点では、
   SI01から「国厨」墨書土器1点(甲斐型坏 底径約7.2cm)
   SI01から「国厨」墨書土器1点(8c後半)
   SI01から「国厨」墨書土器1点(須恵器蓋 8c後半)
   SI03から「大住厨」墨書土器1点(8c前半)
   SI03から「大厨」墨書土器1点(8c前半)
   遺構外から「国厨」墨書土器2点  

第3地点:SB01 8c後半(5x1~間の大型建物 南北棟 NE0° 側柱 部分布掘)
 ・「8世紀第3四半期」⇒「8c後半」に振り分け
 ・北東隅のP8から「旧豉一」墨書土器(8世紀第3四半期)1点
 ・P8・P5から根固石

第3地点:SB02 9c前半 (2~x2~間 南北棟 NE41° 側柱 坪掘) 
 ・『平塚市史 11下 別編考古 (2) 』では「桁行四間・梁行二間の可能性」 

さて、国庁建物の消長と稲荷前A遺跡の位置づけを考える場合、「国厨」の立地条件として、国庁や国司館との地理的距離も一つの要件となりうると思う。その国庁建物や国司館想定地との距離は次のようになる。

◇検出された国庁建物は、稲荷前A遺跡から北東約600m
(先の『湘南新道関連遺跡Ⅳ』では”750m”とされている)
◇国庁想定地(小島弘義氏が国庁区画溝の可能性を想定した高林寺遺跡第7・第9地点)は、ほぼ真北に約250m
国司館想定地(明石新氏・若林勝司氏が国司館の可能性を想定した「下郷廃寺跡」)は、南東約100m

(なお、ごく個人的に、11c前葉の相模国司・大江公資の「たち(館)」…1024年に延焼か?…の立地域について、高林寺遺跡第3地点周辺などを妄想している。)

果たして、9世紀以降の国庁機関の場所をどこに求めるのか? そして大住郡衙はどこに位置するのか?
相模国府域の様相の検証はこれからだ。
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思えば、稲荷前A遺跡については、「国厨」・「旧豉一」、「大住厨」・「大住」などの墨書土器を出土する特異な遺跡として注目し、「墨書土器から見る稲荷前A遺跡」という小文を、サークルの一員として書き留めたことがあった(『検証 相模国府 -古代都市復元への挑戦-』2010年 平塚市博物館
今回、改めて、田尾誠敏氏の論考「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」(『考古論叢 神奈河 第25集』2018年 神奈川県考古学会)なども読み直しながら、稲荷前A遺跡の位置づけについて、再び思い巡らすことになった。
(私にとって、考古学の魅力は、新しい調査・研究によって次々と、私の安易な思いつきが崩され続けること…あるいは遺跡への妄想・偏執がさらに強化されてゆくこと…にあるようだ。)

こうして、稲荷前A遺跡第4地点の竪穴住居址軒数に刺激を受けたあと、さらに友人から、四之宮の国道129号沿いで調査をしている…との知らせをもらった。

にわかに心が浮き立ち、10日の午後には、四之宮へ向かうことになった。
(友人の話から、その位置は、高林寺遺跡から国道を挟んだ西向かいの諏訪前B遺跡であるらしい。とすれば、古代東海道の東端が…?と思わないではいられなかったから。)

  

稲荷前A遺跡第4地点周辺の現状(北西から):
「国厨」・「大住厨」・「旧豉一」などの墨書土器を出土した稲荷前A遺跡第1・第2・第3地点はこの十字路の北東150mほどに位置する。
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【補記】

 ≪第1・第2・第3地点の竪穴住居址軒数≫

8c前半     5
8c後半     2
  
9c後半     1
10c前半     1 

 

≪第1・第2・第3地点 + 第4地点の竪穴住居址軒数≫

7c後半     4     
7c末~8c初頭  1
8c前半     7
8c後半     5
  *
9c後半     3
10c前半     5
11c前半     3