enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝について

 

 

f:id:vgeruda:20210616121358j:plain高林寺遺跡第7・第9地点の現在(2021年6月10日)

 

発掘調査中の諏訪前B遺跡の現場から129号線をはさんで東隣には、高林寺遺跡第7・第9地点が位置する。

考古学を学習し始めてから、この地点の報告書を随分と時間をかけて眺め直してきた。しかし、図版を読み解く力を持たず、分からないことばかりだった。いつも壁に突き当たり情けなく思った。

今回、諏訪前B遺跡の現場を訪れたことをきっかけに、改めて、この高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝についておさらいすることとなった。

この区画溝の解釈については、
①1988・1990年の報告書で”8c中葉~10c前半の相模国庁区画溝”と想定されたのち、
②”相模国庁区画溝”説への疑問が問いかけられ(明石 新「相模国府域の様相-国府域内の集落の分析をとおして-」1995年 『考古論叢 神奈河』第4集)
③1999年に第12地点の報告書で”第7・第9地点の区画溝は11cを遡らない”と検証され、第12地点の区画溝と一体の”13c代の区画溝”、”鎌倉時代の居館の可能性”と位置づけられ、
④さらに「石清水八幡宮の相模古国府預所(田尾誠敏「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」2018年『考古論叢 神奈河』第25集)との具体的な想定が提示される、という段階にきている。

 

今や、13c代の所産との見解が定着しているこの区画溝に対し、今なお、その古代の様相への思い入れを捨てきれない。未練の思いをメモにして残しておきたい。


【高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝の解釈(上記の①・②・③・④)に関連して】

*”8c前葉~10前半の相模国庁区画溝”説が成立せず、”11cを遡らない区画溝”と見なす時、逆に、9c前半に竪穴住居址の空白期が生まれることが注目される。
国府域中枢域で、高林寺遺跡は諏訪前A遺跡・諏訪前B遺跡・稲荷前A遺跡と同じく、8c前半・8c後半・9c前半の時期内で、竪穴住居址軒数が階段状に減少するパターンを見せる。
註:ただ、諏訪前B遺跡・稲荷前A遺跡が、9c後半以降は衰退していくのに対し、高林寺遺跡・諏訪前A遺跡は、11c代にも竪穴住居址が細々と存続してゆく。
(パターンは異なるが、相模国庁域の坪ノ内遺跡・大会原遺跡・六ノ域遺跡も同じく、11c代の竪穴住居址を出している。
なお、ひと昔前の『enonaiehon』の次の記事でも、国府域の11c代の竪穴住居址について書き留めている。
相模国府域で11世紀代に継続する竪穴建物群 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

*また、第7・第9地点周辺では、北側の高林寺遺跡第3地点の9c前半の竪穴住居址は0軒(全体:17軒)、及び諏訪前A遺跡第1地区第3地点では1軒(全体:18軒)、さらに西側の諏訪前B遺跡第4地点(今回訪ねた遺跡)でも1軒(全体:26軒)となっている。

*9世紀前半の時期、竪穴住居址が上記の遺跡周辺では影を潜めてしまうことの背景として、田尾誠敏氏が言及されているような次の想定(田尾誠敏「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」2018年『考古論叢 神奈河』第25集)は魅力的だ。

◇湘南新道関連遺跡で検出された8c代の国庁建物は、9c前後に廃絶 か
   
◇高林寺遺跡第7・第9地点の区画溝周辺に、9c前半の(暫定的な?)国庁が存在した可能性を想定
   
◇「下ノ郷廃寺跡」を、9c後半の政庁機能を担った国司館と想定

*以上のように、相模国庁の8c~9c代の時間的推移・空間的道筋が想定されたならば、続く10c~11c代の道筋も追求されなければならないのだろう。そして、古代東海道の行き着く地点も。

それにしても、高林寺遺跡第13地点の報告書を早く手にしたい…。図書館参考室の書棚で新しい報告書に出会いたい…。

 

f:id:vgeruda:20210616111903j:plain
f:id:vgeruda:20210617020007j:plain

「下郷稲荷」:
諏訪前B遺跡・高林寺遺跡第7・第9地点から駅へと帰る道すがら、地図上の ⛩ 記号に惹かれて、ふらりと立ち寄った。右隣(東側)は畑になっている。その畑のさらに東側は稲荷前B遺跡、畑から西側のこちらは天神前遺跡となる。
右の写真は、この畑の道際で見かけた土器片。
(ちなみに、この東側の一帯は第4砂丘列の東端部にあたり、大住郡衙がありそう?と、かつて妄想していた地点の一つだ。)
変容してゆく市域で、表面採集ができる畑がまだ残っているのが嬉しかった(調査で新しい情報がほしい…でも調査で壊されてほしくない…という矛盾)。